2017年3月29日水曜日

能登奇譚






「能登奇譚」




まだ見ているぞ。

僕は目の端で彼女を確認すると、地酒を飲み干し、緑の杯を卓に置いた。そしてふたたび鉛筆を走らせる。

座卓の上はPCやら三角スケールやらスケッチブックで雑然としている。ここは、北陸、金沢からローカル線を乗り継いだ山奥の温泉地。椅子のデザインをする時はいつもこの旅館に来ることにしている。今年もデザインの仕事が溜まりに溜まっていた。到着するや否や座卓に座り込み、以来ずっとラフデッサンの作業が続いている。夕飯もそこそこに下げてもらい、うんうんと没頭するが、良いひらめきに至らないまま、こうして深夜近くになっている。

初秋。
季節の虫が思い思いの音を奏でていた。部屋に付いた小庭の端に置かれた古い灯篭(とうろう)、その上の朧月が雲に覆われたその時、それは突然現れたのだった。

あれ
最初は見間違えかと思った。いつの間にか、金魚柄の着物を着た女の子が部屋の隅に正座していたのだ。帯を腰の高い位置で結んでいる。小さな女の子だった。彼女は私の手元をじいっと見入っていた。見間違いではない。この子は確かにここにいる。酒に酔っているからか、デザインの作業に熱中しているからか、半分夢だと思っているからなのか。自分自身よく分からないが、僕はこの女の子に不思議と怖れの気持ちを覚えなかった。

僕は頭の中で、昼頃に馴染みの仲居と交わした会話を思い出していた。「あらー、あんさんは家具のデザイナーさんだったですかぇ。いつもぉ一人でお泊まりなもんでぇ、どんなお仕事の方かなぁって思ってたんですよぅ」ハアとかマアとかどっちつかずの返事をしながら、僕は出された饅頭を口に入れた。娘娘饅頭(にゃんにゃんまんじゅう)と書かれた不味くも美味しくもないこの地方の御当地饅頭だった。仲居さんが「はぁまぁそれは奇縁というもので」「奇縁?」「この里にゃぁ、木造部童女の伝えが残っていましてぇ」それそれと言ったように仲居が僕の手の中の饅頭を指差した。「献上するはずの床几(しょうぎ)の前で死んでしまった子供の職人の言い伝えですよぅ」

「あ・・」ウインザーチェアのデッサンを始めた時、初めて少女が身を動かし、声を発した。ええいこうなったら、と、僕は初めてその子に顔を向けて尋ねてみた。「椅子に興味があるの?」少女は目を二三しばたかせると、こくりと小さな顔を縦に振った。「名前は?」「サト」サトはすがるような目をしておずおずと膝で近づいて来た。「その寄り掛かり(椅子)、面白い」か細い指でスケッチブックのデッサンを差した。「付き枝()が座から生えてる」古来椅子は後脚が背もたれと一体となっているが、中世イギリスで開発されたウインザーチェアは背もたれのパーツと脚のパーツが座面を起点に突き刺さって構成される。それが珍しいのだろう。「壊れる?」「いや、壊れないよ」ふうん、とつぶやき、サトは僕の設計デザインに見入っている。「ここはこう角度をつけて突き通して、ここに割り契りをいれるんだ」サトの頬がピンク色に染まってくる。熱中しているのだ。

天正の世、この地は上杉と織田で取り合いになっていた。守護役の遊佐続光は上杉方に庇護を求め、献上の品として床几(しょうぎ: 移動用の折りたたみ椅子)を作らせることにした。目を留められたのが木工の腕前は城下一と評判を持つ作新という男だったが、その作新は織田側を主張する遊佐続光の政敵、長続連に暗殺されてしまう。作新の仕事は幼い実の娘が継ぐことになったが、後日ある事件があってやはり死んでしまったという。「その娘はねぇ、天にもらった才能があったという話でねぇ。哀れに思った村の人々がひっそり小さな祠(ほこら)を作って祀(まつ)ったって話です。興味あるならあとで地図書いときますよぅ」「そうなんですか、へえー。でも奇縁っていうほどのことでもな・・」

・・くない
いるから、その子、今ここに!!
いや、奇縁というより、これはもう奇譚の部類だ。

いつの間にか、サトはすっかり僕に懐いたようで、さっきから何度も西洋の椅子について質問をしてくる。体の熱も感じるし吐息も聞こえる。遥か昔に死んだ女の子とは到底思えなかった。あの仲居さんとその孫かなにかが、みんなして僕を担いでいるのではないだろうか。

長い夜が続いている。サトはいつの間にか静かになっている。僕の足に頭を乗っけて、時折、すうすうと寝息を立てたり、時折、目を薄く開けて身の上話をしたりする。

「サトはね木を削って椅子を作るのが好きだったの。おとうもおんなじ。外椅子を作るとね、村の皆んながにこにこしてくれるの。畑の時、腰が楽になるって。畠山の殿様も、サトのことをこの国の宝だなって言ってくれたんだよ。毎日楽しかったな。でもね、ある日、悪い守護様がね、畠山の殿様を追い出しちゃった。それで、次は上杉様のために床几(しょうぎ)を作れって言ってきた。おとうはその仕事を嫌だったけど引き受けることになったの。でも結局、守護様の敵方に種子島(てっぽう)で撃たれちゃった。おとうはね、死ぬときにね、サトに言ったの。椅子は人を幸せにするためにだけ作るんだぞって。この仕事は誰も幸せにしないからダメだって。でもサトはおとうの名を落としたくなかったんだよ。だから、続きをやることにした。白樫(しろかし)でこさえた床几はね、本当に素敵な出来上がりだったよ。でもね、最後にね、台輪の窪みに竹と雀の紋章(上杉の家紋)を入れなきゃいけなかったんだけど、サトにはどうしてもそれができなかったの。掘ろうとすると涙が出てきちゃって、おとうや、追い出された畠山の殿様の笑った顔を思い出しちゃって、手が動かなくなったの。サトはね、最後まで一生懸命考えたよ。おとうと畠山の殿様のことを。笑っている2人の顔を」

蟋蟀(コオロギ)が鳴いている。谷の下に流れる川が滔々(とうとう)と音を立てている。月は白々と夜を照らし、時折吹く強い風が草や木を揺らす。

しばらく寝入っていたサトがふと目を覚ました。そして、僕の耳元に口を寄せた。「あのね、おじさんの椅子には足りないものがあるよ」サトは少し申し訳なさそうにしている。僕のデッサンのことを言っているのだろう。恥ずかしくなって言い訳をした。「うん。おじさんはあんまり才能がないんだ」

「違うよ」「じゃあなんなんだい?」「おじさんの絵には鬼がいないんだよ」

鬼?とまどった。
鬼ってなんだ?

『その子はねぇ、餓死だったって言い伝えでねぇ。ある朝、小さな木彫りの刃物を持って、すっかり出来上がった床几の前で死んでいたんですって。なんでまた、ご飯も食べないで、そこまで熱中したのかねぇ』

「おじさん?」「なんだい?」「サトはお腹が空いたよ」「えーと、あ、これ食べる?」「それ、おまんじゅう?」「うん。なんか君の由来のおまんじゅうみたいだよ」「なーに?由来ってあ、おいしい!すごくおいしいよ!」「そうか、良かった」「ねぇおじさん」「なんだい?」「サトさーあの日からずーっと寒かったんだけどさー、なんかあったかくなってきた」「あの日からずーっとって何百年も?」「うん。そうそう」

ほあーあ。

大きな口を開けてあくびをすると、サトはまた僕の膝で寝入ってしまった。

鬼。
隠ぬ。目に見えないもの。おらぬのにおるもの。居ないのに居るもの。情の凝り固まったもの。喜怒哀楽それぞれが、木の杢の繊維のように不可思議にねじ曲がり極度の異様を発する状態。

そして殊更に美しいもの。

明け方、ふと目を覚ました。どうやらサトと一緒になって眠ってしまったようだった。サトがモゾリと動いて立ち上がる気配を感じた。眼を開けた。サトが僕を見つめて何か言っている。口を開いてパクパクするのだが、声が聞こえてこない。僕は身を起こして座ったまま、サトを見上げた。サトの輪郭がぼんやりとしている。サトがおいでおいでをする。座敷を出て、中庭に続く木戸を開けた。僕は体を起こしてついて行った。サトが裸足のまま庭に出る。そして端っこに置いてある灯篭(とうろう)の前に立ち、その足元を指差した。そしてあごをちょっと上に上げてニッコリと笑った。

朝。
中庭から燦々(さんさん)と秋の光が差し込んでいる。

失礼しまぁーす。仲居さんが部屋に入ってきた。朝食の膳を抱えている。僕は浴衣の前をあわてて閉じて、散らかった卓につく。「よく寝られましたかー?」朝刊を受け取る。「夜中までお仕事されてたんですねぇ。あらあら、こんなところにおまんじゅう転がしてぇ」昨夜サトが食べたはずの饅頭が畳の上に転がっていた。僕はボーッと中庭を見つめた。夜明け前に少し雨が降ったのだろうか。木々がキラキラと光の粒に覆われている。冷めないうちに食べてくださいねと言い残し、出て行こうとする仲居さんを呼び止めた。「あの庭の灯篭(とうろう)は昔からここにあるんですか?」仲居さんは庭に目をやり、すぐに頷いた。「この旅館ができるずっと前からここにあるって聞いてますよぅ。年代物ですねぇ」と言い残すと、パタパタと出て行った。僕は暖かい椀を引き寄せ蓋を開けた。湯気が座敷に立ち上る。僕の口からふうと声が出た。一口啜(すす)って顔を上げた。「夢じゃ・・ないよな」掴んだ箸を膳に戻して立ち上がった。畳を渡り、庭のガラス戸を開けた。おだやかな秋の暖かい風に包まれた。サンダルを履くのももどかしく、庭の端の灯篭に走り寄った。足元にしゃがみ込み、灯篭の下の土を掘る。粘土質の固い土を何度も掻き分けて数分後、指が固いものに触れた。心臓がドキッと音を立てた。掘り出したのは漆器の小箱だった。上下に噛み合った固い蓋を無理やりこじる。バカリと音がして蓋が開いた。

早々に旅館をチェックアウトして、僕は仲居さんから教わった道を辿り、裏手の祠(ほこら)に向かった。何百段もの山階段を登り、ようやくたどり着いたそこは、祠というより小さい社(やしろ)であった。山の草木と同化し、何百年とここで時を過ごしたお堂。その前に立つ。チチッ。鳥が境内に落ちた木の実をついばんでいる。幾枚もの黄色く色づいた木の葉が、陽の光を浴びて音もなく舞っている。ギイイとお堂の扉を開けた。暗く狭い堂内。その中心には、変色して黒茶けた床几が安置され、その後ろに木彫りの仏様が立っていた。かすかに微笑むその口元が、今にも何かを話し出しそうで、胸がギュッと締め付けられた。僕はその場にしゃがみ込み、コートのポケットから漆器の小箱を取り出し、蓋を開けた。中に収まっていた黒く丸い漆器の紋章。僕はそれを床几の前台輪の窪みにピタリと嵌め込んだ。足利二つ引両紋(畠山の家紋)が、時を超えてそこに収まった。息をのむほど美しい木工の完成に、僕はひっそりと身を震わせた。

鬼がいないんだよ。

畠山城主が守る故郷。そこにかつて満ちていた沢山の笑顔たちへの追慕。その居場所を奪われた、行き場のない怒り。父を守りきれなかった己が無力。新しい世を受け入れることのできない苦しいほどの意地。その入り組んだ複雑な情は、あんな小さな子の心にさえ、

鬼を植え付けた。

それは、この麗しき白樫の木工と同じ

殊更(ことさら)に、
美しい美しい鬼だ。

(やしろ)を出て長い山階段の上に立ち、遠く鮮明に連なる秋の山々と、麓(ふもと)で黄金色に輝く稲穂の波を見下ろした。山階段を一歩一歩降りるたび、僕の肩が震えた。小さく漏れる僕の泣き声は、高く青い空に吸い込まれていった。


おわり。


WebマガジンColla:Jより
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