2016年2月16日火曜日

青いアルバム



青山ブックセンターからその依頼が来たのは、妻、みず枝の10回目の法要の翌日だった。

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My Life , My 100 Books ?
「はい。先生の今までの人生の100選を選んでいただきたいのです」
「夏の思い出の一冊とかではなくて、人生の100?
「はい。」
「君、100冊というと相当な量だぞ」
「はい・・難しいでしょうか?

書店の若い男が申し訳なさそうに頭を掻いた。

「いや・・難しいこともないが・・」

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祐天寺駅前の蕎麦屋で昼を済ませ、自宅に戻り、書斎の大きな本棚に向かい合った。20歳になるか、ならない頃に小説家を目指して、今年で70歳になる。文学賞と言われるものも幾つか取った。しかし未だに自分が小説家であるとの自負を持てないでいる。きっと私自身を納得させる作品を書けていないからであろう。

「うーむ」

まず「銀河鉄道の夜」を手にした。続いて「星の王子さま」と「夜間飛行」を引っ張り出した。

100冊か・・こりゃえらい作業だぞ」

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「ねえ、ねえったら」みず枝が私の青い外套を引っ張った。神田の古本屋の奥。「今日の映画はやめにしますか?」ハッと顔を上げた。時計を見る。ここに来てから2時間も経っていた。手に持っている大江の著書を手放し難く、私はみず枝を見た。買いたくても金がない。しょうがない。明日また読みに来るか。諦めかけたその時みず枝が言った「待っていますよ」「あ、いや」「映画は明日もやっています」店のガラス窓から夕日が差し込む。二人がオレンジに染まる。みず枝の顔は逆光で見えない。でも分かる。彼女は私の大好きなあの顔で笑っている。優しい優しいあの笑顔。

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「僕は小説家になろうと思います」みず枝の両親の前で土下座をした。人に土下座をしたのは初めてだった。内心は忸怩たる思いでいっぱいだった。「いくら早稲田卒と言っても無職ではねぇ」みず枝のお母さんが僕に目を合わせないように言った。カッとして立ち上がりかけた。私の右手を抑えるように、みず枝の左手が重なった。横を見るとみず枝も額を畳につけていた。「お父さん、お母さん。私の生涯で最初で最期のお願いです。お聞き願います」彼女の目から涙が落ちた。

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なんとか60冊を選定した。よし、もうひと頑張りするか。開けた窓の外にカラスの鳴き声を聞いた。寺の鐘の音が夕方を告げた。もう冬か。風が冷たい。

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その子を抱いた時、私はその軽い重みに動揺した。「おとうさんですね」みず枝がベッドから私を見上げて照れたように笑った。「ねえ、あなた、アルバムを買いましょう。たくさんたくさん思い出を作りましょうね」

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「楡家の人々」これで80冊か。台所から炊事仕事の音が聞こえた気がした。私は・・・台所から私を呼ぶあの声を、この10年聞いていない。みず枝に10年も会っていない。

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私は幸せものでした。でも・・・残念です。あなたの小説をもっと読みたかったなあ。もっとあなたのお世話をしたかったなあ。あなた、お茶の一つも淹れられないからなあ・・・。

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99冊。
部屋が夕陽のオレンジでいっぱいになっていた。うず高く積み上げられた本の山の中で、私はポツンと座り込んでいた。最期の一冊は決まっている。仕事はこれで終りだ。箪笥から引っ張り出してきた古い服。ボタンの取れかかったあの日の青い外套を、膝の上にかけて顔を上げた。「おい、かあさん、終わったぞ。お茶をいれてくれ」リビングに向かって声を出してみた。そして耳を澄ました。

フッフッフッ。

返事の代わりに、いくら押し殺しても漏れ出てしまう、自分の吐息を聞いた。

私は・・。

優しい優しいあの笑顔に。もう一度だけ会いたい。

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小説家が消えた畳の書斎。
100冊の本の山。
その一番上に、綴じのほつれた青いアルバムが乗っている。


そして、ただ静かに冬の部屋は翳りゆく。

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2015年12月号(バックナンバー)より
マンスリーwebマガジン
「コラージ」にて
『リズム』(野田豪)大好評連載中


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