2015年7月26日日曜日

刃鳴り 3 「名匠展」


若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編 5 

稀代の削り師 武藤銀次郎  ]



sub-episode 5



「刃鳴り」


                           
3
「名匠展」


「あのシウリ桜はお前にはやれん」

旭川、神居村。
師匠は腕組みをしたまま俺を睨みつけた。

「名匠展ですよ?」
「それがどうした?」
「俺が削るんです」
「だから、それがどうした」
「師匠っ !!」

窓の外。
工房小屋は半分くらい雪で埋まっている。
その重みで小屋がギシギシと軋んでいた。
ひょうひょうと雪が鳴っている。
達磨ストーブの上の薬缶がカタカタ音をたてている。

俺はその場に膝を突いた。
自分の手を床に置き、その手の上に頭を付けた。

「師匠っ。お願いです。あれを削らせて下さい」

屈辱だ。
俺の自尊心がギリギリと歯ぎしりしている。
心が破裂しそうだった。

しかし・・・。
負けたくないのだ。
三島兄弟にも、
鳥居左膳にも、
今井専修にも、
善次郎にもだ。

十中八九俺は負けないだろう。
そんなことは俺が一番知っている。
しかし俺は100%で勝ちたいのだ。
完膚なきまでに・・・
勝ちたいのだ。

師匠は俺を見下ろしている。
俺の目の前につま先が見える。
俺はその目を外し、もう一度頭を床に擦り付けた。

「銀次郎・・・」
「はい」

静かで優しい声だった。

「詩織は無事なのか?」
「今、検査入院しています、さっきそう言ったはずです」

なぜここで詩織なんだ?
今俺は名匠展の話をしている。
その材料の話をしている。
関係ないではないか?
頭が混乱した。

「銀次郎・・・」
「はい」

窓枠がギシッと音を立てた。
「お前では足らんのだ」
小屋がミシッと音を立てた。
「あのシウリはお前にはやれん」

「つっ・・・」

その瞬間、俺の体が、爆発した

「てめえっっ」

師匠に殴りかかる自分を、
もう俺は止めることができなかった。


*********************



2年後。



1955年。
1月。

冷えきった板床に置いた足が痺れている。
しんとした工所に木を削る音が響く。
手の中の鉋(カンナ)をギュッと握りしめる。
欅(けやき)を削っている。
俺は今日も、ただ黙々と座椅子を削っている。




ひと月前、
病院に呼び出された。

「まだがんばっています。
しかし、本当は未だもっているのが不思議なくらいです」

奥村という若い医師が病室の前の廊下で俯きながら言った。
俺は下を向くしかなかった。

「最後はご自宅で・・・」

初めて詩織が倒れてから2年が経った。
スキルス性乳がん。リンパ転移。脳転移。
広尾、虎ノ門、築地。
何度も病院を替えた。
無駄だった。
詩織はどんどん痩せ細って行った。

ベッドの横に健一が座っている。
5歳の背中が悲しみに縮んでいる。
俺はその横に座り、眠る詩織を見つめた。
ここ数日、詩織は目を開けてくれない。

遠く旭川で。
詩織が生まれた朝を思い出した。
俺の背中に乗ってはしゃぐ詩織。
学校までの長い道のり。
引いて歩いたその小さな手。

俺は最初からこいつと一緒にいた。
ずっと一緒に・・・。

善次郎と細君の公恵さんが病室に入って来た。

「銀さん・・・」
「ああ」

善次郎が健一の肩に手を置いた。
健一は善次郎の家に世話になっていた。
俺と別に暮らし、健一はいつの日か笑わなくなっていた。
本当は今こそ父親である俺が必要なのだ。

しかし、
俺にはそれが出来なかった。
どうすれば良いのかも分からなかった。
木工所と病院の往復の毎日。
家事など出来るはずもない。

『健一と荘八は歳も近いし、気にしないでください』

そう言ってくれた善次郎と公恵さんに甘えた。

「健一君、学校、行こうか」

公恵さんの声に健一が言葉もなく立ち上がった。俺を見ることなく俺の前を通り過ぎて行く。俺に似た細い目が眠そうに細められて空を見つめている。その目からなんの感情も見て取ることはできなかった。

病室には俺と善次郎が残された。

「銀さん、名匠展のエントリーなんですが・・・」

善次郎が鞄から書類を出した。
名匠展?
遠い昔の話のように聞こえた。
そうか、あれから2年。
もうそんな時期になっていたか。
しかし、今の俺に何を削れというのだ?
木工所の仕事をこなすだけで精一杯だ。
それはすべて病院代と健一の養育費に消えて行く。
あとは酒代だ。
酒量が増えた。
一日中飲んでると言ってもいい。
俺の胃は常に軋んだ音を立てている。
このまま俺も死ねばいいのだ。
そう毎日思っている。
俺はもういい。
そんな力は残っていないのだ。

「善、俺はもう・・・」

言いかけたその時。

「日本・・・」
鈴のような声がした。
その声に振り向いた。

「詩織?」

詩織の手が動いた。
宙をさまよい、パタリと布団に落ちた。
詩織・・。

詩織が目を開けていた。
目がキョロキョロと動いている。
俺を探しているのだ。
俺はベッドに駆け寄った。
詩織の手を握る。

ひからびた詩織の口が薄く開いた。

「銀さん・・・」
「ああ。いるぞここに。
俺はここにいる」

・・・はい。はい。
詩織が微かにそして小刻みに頷いた。
俺の手を握る手。
その手に微かに力がこもった。

「銀さん、お願いがあります」
「なんだ、言え」

「名匠展で日本一になってください」

『銀さんの腕を世界中に知らしめるのでしょう?なら、私が横でそれを応援しなくてどうするのです』

「詩織・・・」
「あとね・・・健一が心配です。あの子・・・」

口がパクパクと動くが声が出ない。
それが恥ずかしいのだろう。
詩織はちょっとはにかんだ。

「ゆっくりでいいですよ、詩織さん」

善次郎が横で声をかけた。
その声に詩織は何度も頷いた。
気づくと病室の隅に医師の奥村が立っていた。
奥村が俺に頷いた。
聞いて上げて下さい。

「あの子、友達ができないの。頑固なの。だからね、誰よりもあの子には・・・友達が必要なの。あの子にはね、特にね、ともだちがいないとだめなの。銀さんと同じなの。ともだちね」

俺はベッドの鉄パイプをギュウッと握った。

「あとね、ごめんね。ぎんさんの日本一をみれなくて、あとね、ごめんねけんいち、ともだちね。しっかりね。あとね、はるになるとね、さくの。きれいなきいろいはな。すきだなわたし、ね?おとうさん?ぎんさん?」

癌に犯された脳。
思考回路が混濁しているのだ。
奥村医師が俺と銀次郎に目を投げた。
押し退けられた。
奥村が用意されていた酸素吸入器を詩織の口に当てた。

救急処置室に運ばれる詩織を見送った後
俺は廊下で踞った。
善次郎が俺の肩に手を置いた。

「善 !!」
「はい」
「材料だ」
「はい」
「東北欅(けやき)でいい。大量に用意しろ」
「はいっ」

*******************

そして・・・。
俺は今日も、ただ黙々と座椅子を削っている。

繊維に目を凝らす。
どこだ?
ここか?

木には時折、繊維が寄っている部分が出る。

それは、その木の独自の性格だったり、気候風土の具合に因るものだったり、地中の養分に左右されたり、または、良性悪性問わず、ウイルスの問題などで発現する。

そして、その寄り固まった繊維部分の様子が斑点状や縞状だったり、牡丹に似ていたり、火焔に見えたりと、不思議で美しい紋様を形成するのだ。

その現象を俺たちは一口にまとめて「杢」(モク)と呼ぶ。

これが単なる木目と「杢目」の違いである。

高級材の楓(かえで)の「バーズアイ・メープル」や欅(けやき)の「ボタン杢」などがその代表例であるように、つまり「杢」とは概ね素材の美しさ=意匠(デザイン)として語られる。この杢が出ているから、美しい、とか、これといった杢が出ていないから取り柄がない、などとというように。

しかし
銀次郎は見た目のデザインで杢を探しているわけではなかった。盤木を使ったテーブル材やキャビネットの扉板だったら杢を意匠として用いて作品を飾ることも考えられる。だが、今、作っているのは脚付き低座椅子だ。椅子は構造と造形が全てだと思っている。椅子に女々しいお飾りなんて必要ない。

銀次郎は優秀な外科医のように、材に指を置いて杢を打診する。材の上を指で、つうっとなぞっては止める。また動かしては止める。

木目の間の雲状の霞。
細かく移ろう組織の変色。
青みがかった細胞の澱み。

銀次郎の目と指はその変節を逃さない。

ここぞという箇所に型紙を当て、チョークを入れて行く。

木取り。
木目の方向、そして複雑きわまりない杢目の緩慢を読み解き、欅(けやき)を帯鋸で切り出して行く。

繊維の凝りを抽出し効果的に用いれば、誰も見たことのない細い椅子を組み上げることが出来るはずだ。

欅(けやき)という固いが鈍重な材の一般論とはまったく異なる、細く美しく流麗な椅子を作れるはずなのだ。

一寸(約3cm)だ。
それ以上ではいけない。
俺の椅子でなくなってしまう。

仕口(木と木の接合部分)以外のすべての部位部分を一寸の太さで構成してやる。

一寸椅子だ。

椅子の必要条件は4っ。

軽きこと。
強きこと。
座り易きこと。
美しきこと。

この中で特に厄介なのが、軽さと強さである。

椅子は軽くしようとすれば脆くなり、強くしようとすると重くなる。軽さと強さは、もともと反比例する要素なのだ。

その逃げ道として、材がある。

例えば、100年でわずか直径50cmにしか太れない木がある。このような材は100年で1Mを越える材より強靭だ。また、階段材や野球のバットに使用される、トネリコ(タモ)のように種として木質そのものが強くしなやかな木がある。このような材は細く攻めることが可能なのである。

だが、と銀次郎は思う。
しかしそこには俺が居ないではないか。
材の強さは俺の腕に因るものではない。
俺は俺のやり方でやる。

材には頼らない。

『奴の木工は力づくだ。木を押さえつけてもいい作品は生まれんよ』

今井専修の声が脳裏に蘇る。
お前ら凡人はそうだろう。
しかし、俺は違う。
お前らと俺は違うんだ。

繊維だ。
杢だ。
寄り固まった部位のみを抜き出して圧倒的な細さを実現してやる。
極限まで細く美しく、そして強い椅子を、俺の木取りの技術で作る。

詩織のような椅子を。

そう。
あの時だ。

『細いな』

詩織にそう言ったことがある。
旭川で祝言を挙げた日の夜であったか。

淡い灯りに透けた詩織が恥じ入るように目を伏せた。
すみません・・。
すぐに涙ぐむ。
いや、そうではない。
違うぞ。
細くてきれいだという意味だ。
そしてお前は強い。
ここぞという時にぜったい引かない強さを持っている。
お前は細くてきれいで強い。
俺はそんなお前が大好きなのだ。
だが俺にそんなセリフを口に出来るわけがない。
代わりにこんなことを言った。

『細くて強い椅子を作るか・・・』

詩織がきょとんとした顔をした。
『なんですか、それ』
詩織の泣き顔が一転する。
『銀さんの頭はいつでも木工ですね』
鈴を転がしたような声でふふふと笑った。


その詩織が・・・。
ひからびた唇で。
かさついた声で。
細い体をさらに細くして・・・。

・・・言った。

『名匠展で日本一になってください』

俺に日本一になれと言ったのだ。

あの時ふいに・・・。
俺の前に長く見失っていた方向が現れた。
詩織がその行く先を指してくれた。

俺はそこに行く。
必ずそこに辿り着く。

と、その刹那。
手の中の鉋(カンナ)が音を出した。
ピィィィィィン。

鳴くか。
俺の代わりにお前が鳴くのか。

インインイン。

刃が鳴っている。
刃が泣いている。

そして・・・。
それに呼応するように。
俺の胃から、肺から、心の臓から何かが吹き出した。

口からそれが迸り出た。

銀次郎が終わらぬ咆哮をあげた。

************************

1955年4月。

青山外苑前。
碧々と葉をつけた銀杏並木の街路は人で埋まっていた。

絵画館の特設会場。
入り口の門に大きく「名匠展」の看板が掲げられた。

会場には36の台座が用意されていた。
その上に全国から集められた作品が乗った。
上には大きく白い布が被せられている。

会場が無数の人間の声でざわついていた。大々的に前宣伝された効果だった。全国の木工所、メーカーなどの関係者、一般観客、新聞社、ラジオ局、TV局、関連企業の社員たち、皇族まで揃っていた。1000人以上集まっている。そして未だ続々と門をくぐって集まってくる。

「銀さん、大丈夫ですか?」
善次郎がフラフラの俺を気づかった。

今朝だ。
今朝ようやく出来上がった。
出来上がったそれに毛布を巻いて、そのまま自分でリヤカーを引いてこの会場に入れたのだ。

「ひどい顔ですよ」

何を言うか。
詩織もまだ頑張っているんだ。

「健一は?」

俺の問いに善次郎が顔を伏せる。

「学校に行きました。一応来いと言ったのですが・・・」

そうか。来なかったか。

あれから詩織の所には一度も行っていない。
行けなかったのとも行かなかったのとも違う。
行っていない。
ただそれだけだ。
健一の幼心は、それに反抗心を持ったのだろう。
当然のことだ。

と、そこへ盲目の老人が会釈をして寄って来た。

「銀次郎さんと善次郎さんで?」
「はい。そうですが」

善次郎が答える。

「鳥居と申します」

鳥居左膳。
高島屋製作所の代表者。
ウインザーの名人だ。

「ああ。これは鳥居さん、初めまして・・・」

善次郎と鳥居のやり取りを遠くに聞きながら、俺は射すような強烈な視線を己の背中に感じていた。刃物のような視線。振り向かずとも誰か分かっている。しかし・・・。そういうわけにもいくまい。意を決して振り返った。向こうの客席に体の小さな男が腕組みをしてこちらを睨んでいた。

師匠・・・。
出品者帳簿に師匠の名はなかったはずだ。
わざわざ見物に来たというのか?
いや・・・。

目が合った。

遠くに立つ師匠の目が言う。

鬼の子め。
お前の鬼が・・・。
ワシの一人娘を、
詩織を喰らいおった。
違う。
違わん。
ワシはお前を許さんぞ。
師匠の目がギラギラとそう語る。
お前を許さん。
見ろ、この通りだ。
師匠の横。

「!!」

健一が立っていた。
健一が師匠と同じ目で俺を睨んでいる。

やめろ!!
師匠!!
健一に何を吹き込んだ?
健一をこの世界に引きずり込むな。
この道は・・・。
修羅の道は俺で終わりだ。
これで終わりにするんだ。

アナウンスが入った。
名匠展が始まった。

**************************

次々と布が取られて行く。
その度に歓声が上がる。
ボクシング会場のようだった。

椅子の品評会には場違いの歓声だ。
しかしこれが復興の声なのだ。
発展の地響きなのだ。
一度這いつくばった日本が今再び立ち上がろうとしている。
立ち上がった先に向かうべき場所。
それは軍拡が行き着く方向ではない。
暮らしを再興する。
それには経済だ。
暮らしの経済・・・。

その象徴は家電だ車だ家具だ

みなそれが分かっている。
だから心が一種異様な興奮に湧くのだ。
この歓声や地響きが雄弁にそれを語っている。

この先・・・。
日本は必ず豊かになるだろう。


一作品に5分、前持って用意された作者による作品意図の解説が入る。佐藤一平、菊池康平など木工家具の頂点とも言うべき審査員が一点一点を間近で確認する。カメラのストロボが焚かれるたびに目の奥が白くなった。

ひと際大きな歓声が湧いた。
善次郎の座椅子だった。
水楢の瑞々しさがよく伝わる椅子だった。
モチーフは明か。
得意技の柾目取り。
どう木取りをしたのか虎斑が椅子全体を被い、それが孔雀が羽を開いたように、放射状に広がっていた。

美しい。

人ごみの中に三島兄弟を見つけた。
が鳴り声を上げて善次郎の椅子をこき下ろしていた。

続けてまた歓声が湧いた。
鳥居左膳のウインザーだ。
細い無数のスピンドルが背骨の形状のS字にうねっている。これは・・・曲げではない・・なんとあの細いスポークをS 字に削り出したのか。一本一本のスピンドルが別形状のS字を描いている。

人間工学の粋だ。
すごい技術だった。

肩を叩かれた。
善次郎が後ろに立って眉根をひそめていた。

「今、会場に連絡が入りました。もうそろそろダメなようです」

詩織・・・。

「俺はここを動かん」

見届けるのだ。
俺は俺を見届けなければならない。
奥歯がバキリと音を立てて潰れた。
それを地面に吐き出した。

会場がどよめいた。

三島兄弟。

見事なフォルム。
錆色のチッペンデール。
マホガニーがネットリとした鈍い赤みを晒している。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

しかしあれは何だ?
まるで本物だ。
200年以上使用された骨董か?

俺は席を蹴って離れ、展示に駆け寄った。

目の前のチッペンデール。
ぞくり。
と総毛が立ち上がった。

古式骨董ではない。
そのように似せられ新しく作られたものだ。

一体何なのだこれは?

剥がれ、色褪せ、傷痕、背の摩耗、足先の劣化、アームの先のテカリ。

これは・・・。
加工だ。

新しく作ったチッペンデールを骨董に仕立て上げたのだ。

塗装でやったのか。

すごい。

新品の椅子には味がない。
俺たちプロは知っている。

良い材、善い仕口(つなぎ目の構造)で作られた椅子は100年以上の時を越える。そして、その年月を経た椅子だけが、そこに刻まれた経年変化と共に至高の椅子となるのだ。

奴らは、それを新品を用いて骨董に仕立てたのだ。

三島兄弟は見事な椅子師としての腕と共に、一つの可能性をここに問いかけた。

塗装だ。

すべてのモノがピカピカの新品ならいいというわけではない。状況や場合次第では、このような骨董加工を必要とする場所も出てくるだろう。裁判所の造作などはどうだ?国会図書館は?そのような威厳を求められる空間には打ってつけの加工法ではないか。

これは家具以外にも無限に使える。
この表現方法は・・・。
この業界の、いやこの国の産業の宝となるだろう。
これも一つの意匠なのだ。

観客がどよめいている。
これが普通とは違うと見抜いている。

何か新しく抜本的な切り口だと、素人であっても、いや、素人だからこそ、大きな可能性を肌で理解するのだ。


「おう、銀次郎」

いつの間にか隣に立った三島新一が俺を小突いた。

「どうだ?」
「・・・しかしこれは・・」
「おっと」

新一は言いかけた俺に手をかざし、制した。

「俺らは俺らの名誉などにゃ興味がねえんだよ」

そうだ。
この椅子は品評会向きではない。
この兄弟が目指したもの。
それは・・。

「芝だ。俺らは芝を背負ってる」

会社の企業広告だ。

芝はこういうこともできる。
表現の幅が他所とは違うと。

つまり、名匠展の舞台で、三島兄弟は己を捨てて会社の広告を打って来たのだ。この2人が、あの気性を押さえつけて企業人に徹しただと?そうなると底知れないのは芝だ。そして芝の三島兄弟はその芝と共に伝説として語られることになる。個人を捨てて企業に徹し、そうすることで個人では行き着けないほどの栄光を結局・・・個人が手にすることになるのだ。

「お前が背負ってんのは自分だろ?だからお前はちっぽけなんだよ」

言い捨てると兄弟が2人同時に背を向けた。
俺は何かを言いかけて口を噤んだ。

会場では今井専修の椅子がお披露目されていた。

藤の曲げ木椅子。

美しい椅子だったが、観衆はさほど関心を示していなかった。
奇麗すぎるのだ。
この数時間で目の肥えてしまった人間には凡弱に映るのだろう。

俺は辺りを見回す。
師匠の姿が見えなかった。
健一もどこかへ消えていた。
いや、どこかへではない。
病院だ。


「三越製作所、武藤銀次郎・・・」
と、アナウンスが俺の名を呼んだ。
「作品名、[深海] 」

俺の作品の白布が取られた。

ついに。
一寸角の構造が世に晒される・・・。
その瞬間。

俺は幻視を見た。
台の上には椅子ではなく
俺が立っていた。

目をこすった。
もう一度目を凝らす。

欅の低座椅子が乗っている。

なんだ、今のは・・・?

そうだ。
あれが俺の椅子だ。

見よ !!
あれが俺の・・・。
あれが・・・。

あれ・・・?

「あ・・・?」

俺は声を漏らした。

「違う・・・」

この椅子じゃない。
突如。
その直感に襲われた。

俺が削りたかったのは。
あれじゃない。

なぜだ?
どこを間違えた?
わからない。
どこも間違えていない。

しかし・・。

なんということだ。
この椅子には・・・。

魂がない。

なんということだ !!
俺は幽霊を作ってしまった !!

************************

しかし、
会場に今日一番のどよめきが起こった。

そのうねりが大きく広がって行った。

審査員の佐藤一平、菊池康平が、椅子の数cmの距離までその顔を寄せた。

佐藤が軽く仰け反った。
菊池がポカンと口を開けた。

「なんだこりゃ?ハッタリだ。この・・・」

叫びかけた三島新二の肩を新一が引っ張った。首を振りながら、俺の椅子の個所個所を新二に指で示した。そこをしばらく凝視した新二の背中が微かに震えた。

鳥居左膳がしきりに俺の椅子をなで回している。盲目の指が杢の凝りとその配置個所を言い当てて行く。やがて、鳥居左膳も、やはり首を振ってうなだれた。

その向こう。
今井専修が遠くで俺を見つめていた。
その唇が微かに笑っていた。
そして。
静かに右手を上げる。
遠くから、その拳を俺に突き立てた。

「銀さん !!」

善次郎が俺の腕を引っ張っていた。

「善・・・」

お前、顔が土気色だぞ。
善次郎が何か言っている。
やがて体を揺さぶられた。

なんだよ。
どうした。

そんなにしなくても分かっている。

死んだんだろう?

詩織が・・・。

たった今。
死んだのだろう?

****************************

灰色の視界。
灰色の音。
灰色の匂い。

気づくと世界は灰色に沈んでいた。

俺はそんなおかしな世界にいた。

灰色の木の投票箱が開けられた。灰色の木札をだれかが集計している。俺の名が呼ばれた。金賞だと言われて、灰色のトロフィーを渡された。俺を灰色の歓声や拍手が襲った。小さい箱を渡された。開けた。小さな灰色の鉋がコロリと転がり出て来た。灰色の俺はそれを掴んで、首を傾げた。右に傾げ、左に傾げ、それでも意味を成さないので、もう一度右に傾げた。灰色の俺は灰色の壊れた人形のように何度も首を傾げた。なんだこれは?詩織?これはなんだっけ?黒柿の鉋(カンナ)だ。それは分かっているんだがな。俺はふらふらと足を前に出した。あれ?詩織?ちょっと待て。ちょっと教えてくれ。どうして俺はこんな所に居るのだ?そもそもお前はどこに行くのだ?隣で善次郎が叫んでいる。俺に向かって大声を出している。病院?分かっている、行く。行くさ。だからそんなに急かすな。しかし、病院は少し怖い。恥ずかしいことなのだがな、詩織、お前まで灰色になってしまっていたらと考えるとな、俺はとても怖いのだ。ふらふらと進む。善次郎が俺の背中を叩いている。待て。ちょっと待て。俺は今大事なことをしなければならないのだ。今思いついたのだ。大事なこと。ほら、これだ。この幽霊だ。目の前のこの低座椅子がすべての元凶なのだ。この椅子は俺だ。つまり俺が幽霊なのだ。だから、俺が削ったこの幽霊椅子、これをな、俺ごとこうして・・・。

会場が湧いた。
金賞に輝いた男が自分の作品を頭の上に持ち上げたからだ。
全員が立ち上がり、再び拍手を贈った。
会場に割れんばかりの賞賛が渦を巻いた。

高々と掲げられた椅子。
ピタリと頭上に止まったその椅子がふいにユラリと傾いだ。
その時。
その痩せぎすの男が、その椅子を床に叩き付けた。

嫌な音をマイクが拾った。
狂気の音が大音響で響き渡った。
拍手がパラパラと止まる。

そして。
男が、もう一度、椅子を拾った。
再び地面に叩き付ける。

会場が騒然となった。
記者たちのストロボが一斉に焚かれた。

ああ・・・。
壊れないな。
幽霊だからかな。
いや違うな。
そうだ。
壊れないように杢を木取ったからだな。
ちょっとやそっとじゃ壊れない。
そのように出来ているのだ。
でもこうするとどうだ。
こうならどうだ。

善次郎ががむしゃらに俺の背中にかじりついている。
泣きながら銀さーん銀さーんと叫んでいる。

泣くな。
善。
泣くな。
こんな世界は壊さないとな。

悲しみに沈む5歳の背中。
俺を睨みつける細く眠い目。

泣くな。
健一。
泣くな。
お前はきっと強くなる。

そして・・・。

詩織。

どうやら・・・。
俺はな・・・。

どうやら俺は何かを大きく間違えていたようだ。










2015年7月19日日曜日

刃鳴り 2 「シウリ桜」



若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編 5 

[ 稀代の削り師 武藤銀次郎 ]





sub-episode 5



「刃鳴り」


                           
2
「シウリ桜」






1950年、東京。
この国が戦後の復興をくぐりぬけ、ようやく発展期を迎えた頃、儂は北海道旭川から東京に上京した。東京タワーのない東京。今でこそ、あの頃を振り返り、貧乏だが夢があったなどと言う者がいるが、それは違う。貧乏と不安。そして、これから訪れるであろう地鳴りのような変化の予兆・・・。怖れ。そうだ。あの時、日本人はみな一様に何かに怖れ怯えていた。だから走るしかなかったのだ。から元気を装い、儂らはせき立てられるように怯え、走った。震えながら前を向くしかなかった。そんな時代の話だ。
とは言え・・・。
22歳。

儂らは若かった。不安を心の底に沈め、とりとめもない漠然とした希望だけを無理矢理に取り出し、儂は身重の妻、詩織を連れて土埃が舞立つ新橋駅に降り立ったのであった。


************************

緑色の都電を降り、俺たちがまず始めにしたことは量り売りのあめ玉を買うことだ。茶色く、がさついた紙袋の中から赤くて大きい一粒を詩織に与え、自分は緑色を口に放り込んだ。

「甘い甘い、痛い痛い」

詩織が後ろではしゃいでいる。
まぶしてあるザラ目が荒すぎて口の中を引っ掻くのだ。
「静かにしてろ」

俺の声に詩織がしゅんとする。

詩織。
師匠の娘。

戦争孤児で身寄りのない俺に離れの小屋を与えて住まわせ、木工の術を叩き込んだ俺の師匠、片桐源治。詩織はその一人娘で、今年17歳になる。俺は10歳になる前から、あの雪深い里で、詩織の世話係をさせられていた。馬になって背中に乗せてあやすのも、寝かしつけるのも、夜中に厠に連れて行くのも、木を削って積み木を作るのも、すべて俺の役目だった。
詩織が15になった頃、その流れ成り行きで、2人は半ば強引に祝言を挙げさせられた。師匠にとっては跡目を俺にと考えていたのだろうが、その後のいざこざでその話は立ち消えた。東京に出るとき見送りもなかったのだから、よほど愛想をつかされたのであろう。
「東京?行きますよ」
「お前、身寄りが居なくなるぞ」
「身寄りは銀さんでしょうが」
「・・・」
「銀さんの腕を世界中に知らしめるのでしょう?」
「・・・」
「なら、私が横でそれを応援しなくてどうするのです」
普段は無口だが、腹に決めたことはテコでも動かない。他に取り柄のない女だったが、そこだけは筋金入りだった。
俺は、詩織を蒲田の産婦人科に送ると、その足である目的地に向かった。
六郷の名門、三越製作所だ。
林幸平。
それがその名門製作所設立時の中心人物の名だ。後に三越の常務にまで上り詰めるこの男は、明治末期、洋家具製作黎明期の日本に、欧米のノウハウをいち早く取り入れた、いわば日本現代家具製作の始祖ともいうべき人物だった。この中心人物とともに興ったのが今の三越製作所の原点である富士屋家具製作所である。
その三越製作所。
戦時中はプロペラなどの軍需品を、復興時はGHQの施設など、進駐軍の仕事をしていたというが、聞いた話によると、現在は再び民間の家具製作に戻っているという。
胸に下げたお守り。

その中にきれいに畳んだ新聞の切り抜きがあった。


[ きたれわこうど ]

木工職人の募集要項だった。
未だ徒弟制度の残るこの時代に木工所が広く民衆に就職を呼びかけるのは珍しいことだった。芝を中心とした東京木工帝国、「芝家具」ではなく、俺が三越製作所を選んだのはその理由による所が大きかった。これら東京の名門木工所が高島屋製作所らと共に相互を善く知り、実質上相互扶助の関係を築いて行くのはその後の話だ。競争どころか、日々の受注に追いつかない戦後の状況が、その奇妙な連帯を生んだと言ってもよいだろう。

工場の入り口に着いた。道の半ばまで沢山の人だかりができていた。俺は人々をかき分け、草の生い茂る、社屋の玄関へと進んだ。

ちょっと兄さんもう無駄なようだぜ、と横の見知らぬベレー帽が言った。
「定員だってよ」

一足遅くあぶれた者たち。俺もその一人だったというわけだ。

冗談じゃない。

俺たちには田舎に帰る金などないのだ。
ぶつぶつと不平を口にし、次々と離散して行く人々を横目に見ながら、俺は入り口の脇にドカッと座り込んだ。

村には帰れない。
ここに居座るのみ。
よし、我慢比べだ。


旭川の神居村。
村を出る時の師匠、源次の言葉を思い出す。




お前は木工の才がある。
しかしその才は鬼のものだ。
ここにはもう戻ってくるな。
詩織はお前にくれたもんだ。
どこでノタレ死ぬなり好きにせえ。


幼子の頃から俺に木工の技を叩き込んだお師匠。その教えはひとつ残らず俺の血肉となった。思春期を過ぎた頃、俺はその一つ一つの教えを自分なりに結びつけ応用し、未だかつてない全く新しい技を生み出して行った。それはお師匠でさえ真似の出来ない俺だけの技だった。
誰もが俺の作品を羨んだ。
誰もが俺の技術に嫉妬した。

そして挙句は

それを盗もうとする奴が出てきた。

後輩の三島市蔵だ。
まだ16歳の子供だった。
技とは・・・・。
己一人のものだ。
己一人で作り上げ
己一人で使うものなのだ。

そして、あのいざこざが起きた。
俺は、俺が開発した俺だけの技術の習得に日夜を問わずして励む三島の指を叩き折ったのだ。


10本の指を全部、カンナの台で叩き折ってやった。

鬼のもの。

お師匠はその所業を鬼と言ったのだ・・・。





ふと隣に気配を感じた。
いつの間にか、丸い顔をした男が俺と同じように座り込んでいた。気づくと周りには、儂ら以外、もう誰も居なくなっていた。

みな帰ってしまったのか。

ふん。東京もんは諦めが早いな。油蝉がジンジン鳴いている。熱波がジリジリと俺の皮膚を焦がす。暇だった。隣の丸い顔はさっきからチラチラと俺の方に視線を投げかけている。

俺はとうとう隣の丸顔に声をかけた。
「なんじゃいわれ?」

そいつはそれを待っていたかのようにニコリと笑った。

「あしは朝倉と申します」

アンパンみたいな丸い顔に似合わない高貴な名前だ。
「その朝倉がなんで俺の横に座ってる」

「兄さんと同じです。泣訴ですよ」

そう言って朝倉という名のアンパンは、たすきがけの布袋からカンナを取りだし、ほらと俺の前にそれを突き出した。

「ね?」

やや小振りの手鉋。
台座が主の手に合わせて加工されて整えてある。握る場所が黒光りする美しさに少しの間、見とれた。

これは見事だ。

台座もそうだが、この刃筋がなんとも言えぬ輝きを放っている。

「この刃は新潟かい?」
「いえ備前です」

備前か。
名産の土地だな。

ふーむ。

「備前は新田屋かね」

「吉川ですな」

「あんた、専門は?」

「低座椅子です」

座椅子・・。

俺と同じだ。
ふーむ。

道の向かいで肥桶を回収している百姓が、座り込んだ儂らを訝しげな顔で見ている。俺はその辺の小石をつまんでそいつに投げつけた。そいつは慌てて逃げて去って行った。
「あしはあれに戻りたくないのです」

朝倉が練馬百姓から目をそらすようにしてポツリと呟いた。

その気持ちはよく分かる。
俺たちのような造形に魅せられた者共は、もうそれ以外は何にも興味が無くなってしまうのだ。憑いたように木を削る。それだけだ。それだけがいい。

「兄さんのお名前は?」

朝倉に聞かれた。

「武藤、武藤銀次郎」

「あしは朝倉善次郎です」

「似た名だな」

「似てますね」

その時、ガラリという音がして後ろの戸が開いた。

「入れ」

中から声がした。

「どうやら根気勝ちしたようですね」

善次郎が言った。

ふん。

儂は口を曲げて笑った。

「わりと早かったな」


**************************

1952年。
結局、儂の腕前はここでも飛び抜けていた。そして善次郎の腕もそれは見事なものだった。昼休憩の時、奴は楢の木塊(もっかい)から、ほんの10分で猫を彫り上げた。虎斑杢(トラフモク)を利用して毛並みを表現するという念の入れようだ。俺はその手をジッと見ていた。家具とは違うが、その工程の中に儂の知らない技が10以上も含まれていた。
「どうですかい?銀さん。あしも中々のもんでしょう?」

得意満面の顔に、おまえは家具職人か?猫職人か?と嫌味を言ったが、その実、内心では舌を巻いていた。こ奴は左甚五郎の生まれ変わりか?

しかしながら、周りの兄衆らを眺め回して、俺たちに匹敵する手練れは部門リーダーの今井専修くらいだった。そして気づいたことがある。この40過ぎの男同様、この会社には理屈理論に関するお喋り達者が大勢いた。製材、乾燥、木取り、組み立て。その理論に誰もがトコトンまで精通していて、それをまたよく喋る。いや、条理を知るのは悪いことではない。俺の体にも木工の理は根付いている。しかしそれはあくまで感覚的なものだ。欅(けやき)には刃をこう立てろ、胡桃(くるみ)はこうだなど言っていてはだめなのだ。欅を相手にするのでも、その木工の筋道は無限にある。それを一つの一般論として憶えてしまったら、融通無碍の技を繰り出せないではないか。

「口じゃあ家具は作れねえよ」
ある日、製図をしている時に口論をふっかけてきた先輩に俺はそう言ってやった。この構造では重力が持たないだとか、この図面じゃ、お前以外誰も作れないだとか、さんざん耳元でやかましかったからだ。

取っ組み合いの喧嘩になった。
周りの社員に引き剥がされた。

寄ってたかって物置に叩きこまれた。
ここでは物置が反省室代わりだった。

「銀さんに製図なんていらないのさ。あん人はあしらと違ごうて頭の中に立体がある。それもとびきり細んまいやつだ。あしらとは違うのさ。天才なんだ」

臭いモップや雑巾が所狭しと並ぶ反省室の外で善次郎が熱弁をふるっている。
ドア越しに丸聞こえだ。

「この量産の時代に天才が逸品を作ってどうする。しかも、奴の木工は力づくだ。モクを押さえつけてもいい作品は生まれんよ。人間関係も一緒だ。その証拠に奴は友が1人もおらんではないか」

これは
今井の声か。
今井専修。
多少は出来る男だが

力づく?
俺は1人でグスリと笑った。
甘い、甘すぎる。

奴らが皆、口を揃えて言う台詞。

「木と会話する」

何をぬかす。
木は木だ。
人ではない。
素材と会話をする?
それはどこのおとぎ話だ?
お前らはみんな妖精か?

そんな眠いことを言ってるから何年も名匠展の入選すら逃すのだ。
木工とは一人よ。
独りでやるものだ。
木は素材でしかない。
それ以上でも以下でもない。
ましてや周りの仲間とお喋りして削るもんじゃねえ。

「あしがいます。あしが銀さんの友ですよ。いや、もっと濃いもんだと思ってる。あんたらがそんなこと言うなら、あしはたった今から銀さんを兄さんにします」

善次郎は皆から好かれるタチだ。
一級品の腕前と誰もが気を許すあの笑顔。
そして何より、善次郎の言葉は人を動かす。

政治家だな。

それにしても兄弟とは、善次郎も思い切ったもんだ。

まあ、悪くはないが。

「木工の世界は腕前で勝負。どうですか?今井さん。次の名匠展であしら兄弟と勝負しませんか?どっちが勝っても恨みっこなしで、でも最後はお互いを認め合う。そんな寸法でいかがです?」

ドアの外で歓声が湧いた。

おおー!
やったれ
いいぞ!!
ヤジが飛び交う。

やれやれ。
全く上手い男だ。

ガチャリと外鍵が外される音がして、反省室のドアが開いた。黴臭い匂いからようやく解放された。目の前で善次郎が照れたように笑っている。皆はもう持ち場に戻っていた。

「銀さん、この会社は現場主義です。みんなを焚き付ければ、会社の上も許可を出すはずです。うまくすれば、あしら新顔が早くも名匠展に出展です。まあ、次は2年後ですが」

善次郎が耳元でコソッと言った。

名匠展出展には下積みが10年は必要だ。うまくすれば、ことの成り行きがどうあれ、俺たちは入社して3年目のスピードで公の大会に出ることとなる。

「俺を兄弟にしたのはどさくさに紛れて自分も出展するためか」

善次郎が舌を出す。

全く
上手い男だ。

***********************
年が明けた正月。
会社の内部指示書が配られた。
1955年「名匠展」

出展代表内定者
今井  専修
武藤銀次郎
朝倉善次郎

此度の展は天覧の予定有り
当製作所代表に恥じない成績を修めるよう
要望するものとする




名匠展。
大手新聞社共同の文化企画。
官公庁の要請により民間に委託されて始まったこの展示会は、実質上、住宅及び内装家具における我が国復興の旗頭であった。スポンサーには財閥系、電鉄系を問わず集まった大手百貨店連合、大手鉄鋼会社、全国の名だたる建設業者など、そうそうたるメンツが企業名を連ねている。多額の入賞金とは別に、ここを足がかりに巣立ち大成した者は未来の立場を完全に保証される。それを狙って日本全国の木工家具職人、その中でも選り抜きの猛者たちが集まるのだ。しかも今回は天覧(天皇の出席)の予定まであるという。賜り物は黒柿の鉋(カンナ)であるとの噂だ。
当然、俺の心は踊った。

芝家具の三島新一、新二兄弟。
高島屋製作所の鳥居左膳(さぜん)

世間一般では神と称される、あいつらと腕試しが出来るのだ。

狙うは日本一。
金賞だ。
そう。
この頃になると俺と善次郎は押しも押されぬ会社の2大看板になっていた。

高級料亭。
諸官庁の内装。
都内のホテルの調度品。
どんどん個人名指定で仕事が入ってくる。俺たちの作品は飛ぶように売れて行った。
納入業者が列を並んで横に立ち、手元を見つめ、完成した瞬間、さらうようにリヤカーに積んで何処かへと運び去って行くのだ。自分の作品の収まり場所すら確認できない忙しさであった。まあもとより俺は自分の手を離れたモノになどまったく興味などないのだが。
削り出しの銀次郎。
彫刻細工の善次郎。

和空間の依頼人は銀次郎に。
洋空間の依頼人は善次郎に。
和洋折衷は手の空いた方へ振り分けられた。

その夜。
俺たちはいつものように蒲田の飲み屋にいた。

駅前の居酒屋、春木屋。

カウンターだけの小さい店だ。
「意匠(デザイン)はお互い決まってるでしょう。問題は材ですね。オルナット(ウォールナット)とかローズ(ウッド)とかマホ(ガニー)を使えたらなあ」

善次郎が言うのは未だ安定供給されていない高級洋材だ。俺も向こうの写真でしか見たことがない。
「無理だな、ティーク(チーク)はどうだ?」

「刃が駄目んなるよう」

ティーク特有の油分は刃を腐らせる。だから嫌なのだと善次郎は言った。カンナを大事にする奴らしいセリフだ。

『銀さん、カンナはね、作品の最中ならそこらに放ってもいいですが、仕上げ終わったらキチンと棚にしまわないと。剣道や相撲で言う蹲踞(そんきょ。礼の座法)みたいなもんです』 

善次郎はいつも俺にそう説教する。

ラジオからは美空ひばり。それにしても、やけに小さいラジオだ。これが今、流行のトランジスタラジオというやつか。

「あしは水楢にしようかと思ってますがねぇ、銀さんはどうなさるんですか?」

酒豪の善次郎はお銚子を45本、自分の前にゴロゴロと転がして、それをいじりながら言った。
「それもあってな、俺は明日、里帰りする。会社にはお前からうまく言っといてくれ」

「旭川ですか?」

「ああ」

俺は勘定をカウンターにジャラリと置いた。

「あ、兄さん行っちゃうんですか?」

「銀でいい。善次郎、俺の材はな・・・」

その時、玄関戸がガラリと開いた。
小さな子がつむじ風のように入って来た。
途端に俺の足にしがみついた。

「父さん !!

「あれ、健一君、お迎えかい?お母さんも一緒かな?」
と善次郎。
戸口に詩織が立っている。
善次郎にぺこりと頭を下げた。
「しばらく見ない間に大きくなった。あらら、いい洋服着てるなあ。この吊りバンド(サスペンダー)なんて舶来ものだぞ。いいなあ、健一君のお父さんは売れっ子で。おじさんもがんばらないとな」

「善おじちゃんは売れてないの?」

「健一」
詩織が消え入りそうな声で嗜める。

「詩織さん、いいんだ、いいんだ」

善次郎は健一に向き直った。

「いいかい、健一君。君のお父さんは日本一だよ。おじさんはね、日本で二番目でいいんだよ。それでもすごいことなんだ」
健一が鼻息を荒くしながら言った。

「お父さんは日本一」


3歳の子供の瞳。
誇らしさでいっぱいの顔。

その時。

「おうおう日本一と日本二ぃだとよ、ずいぶん鼻息が荒いじゃねーか」

と、
声がかかった。

振り向くと戸口に見知らぬ2人連れが立っていた。
片方の男。
開衿シャツの下に入れ墨がチラリと見えた。

双子か?

「誰だぁわれら?」

その2人が俺と善次郎の前に立った。

「俺らぁ芝だよ」

「三島兄弟だ」

交互に口を開いた。
あっと善次郎が声を上げた。

三島新一と三島新二。

名門芝家具の誇る双子の筆頭。
「ほお。三島兄弟か」

そう答えながら、俺は詩織と健一に向かって戸口を指差した。
詩織が健一の手を引いて外へ出て行く。

「最近巷で名を聞く三越のアホづらを見とこうと思ってよ」

入墨の方が土間にペッと唾を吐いた。

「で?」

俺は立ち上がった。

「どうだ?俺らのツラは?」

後ろで善次郎が俺の裾をギュウッと引いている。

「おかまヅラだな」
「ああ。おかまだ」

俺と入墨の額が一寸ほど近づいた時。

「よせっ」

よく聞いた声がかかった。

今井専修が戸口にもたれかかっていた。

いつの間にそこにいたのか。
顔中に怒気を孕んで立っている。
「三越は喧嘩はせん。我らの拳は木を削るためのものだ。お前ら芝は違うのか?」

チッと双子は同時に舌をならした。

「まあ、よい。おかまヅラも見たことだしな、帰るぞ、新二」

2人が同時に踵を返した。

俺が何か言ってくれようとしたその前に。

「帰れバーカ、このハゲ兄弟 !!

後しろの善次郎が大声を出した。
出した途端俺の背中に隠れる。

ハハッと俺は笑った。
「ああ、そうだ」

さっき新二と呼びかけた方が玄関戸の辺りで振り向いた。なるほど、墨入れてる方が兄の新一だ。

「俺らぁはチッペンデールで行くぜぇ?」

新一が挑発顔で言った。

「マホガニーだ」

新二が口を添える。

チッペンデール?
ロココとシノワズリーの融合か。
削り出しと彫刻。例えば俺と善次郎、その両方の技巧がなければ完成できない題材だ。そして、この題材はまさに審査員好み。創作家具よりも教科書的で受けがいい。なるほど。芝家具も相当本気で来るということか。

双子が出て行くと、今井専修が奥のテーブルに座った。苛立たしげに頬杖をついて、「親父、酒っ」と奥に逃げていた親父に注文を投げた。善次郎がその今井に目でお辞儀をした。今井がそれに気づき手の甲をひらひらと振った。
俺はカウンターチェアから立ち上がった。

「あれ?銀さんさっき何か言いかけてなかったっけ?」
「いや、いいんだ。またな善次郎」

のれんをくぐった。
詩織と健一が寒そうにして立っていた。
俺は2人を一瞥すると無言のまま歩き出した。
東京も冬は星がきれいだ。
詩織が健一の背中を押した。

「さ、健ちゃん行こ」

2人が後から付いてくる。
ガス灯の明かりを頼りに3人で歩く。

吐く息が白い。
「今日もお疲れさまでした」

詩織が後ろから声をかける。

「おつかれさまでちた」

健一がそれを唱和する。

その声をよそに、
俺は故郷の平原を思い出している。
先住民族アイヌの遺産。
平均寿命を何倍も生きた化けもの桜
俺の材は・・・。
あのシウリ桜だ。



ガキの頃、離れの土蔵で初めてアレを見た。普段はデカイ南京錠がかかっていて入れないあの蔵に、ひょんなことで閉じ込められた時のことだ。不安に泣き出した俺の背後にそいつは居た。

巨木の丸太だ。
直径にして2mはあっただろうか。

化け物だった。

材、特に日本の広葉樹に関しては師匠から徹底的に叩き込まれている。だから分かった。こいつはとんでもない木だ。
シウリの平均寿命は100年から150年。木の中ではそれほど長命とは言えない。何故か?バラ科、特に山桜は虫や菌に好かれ易い体質を持っていて、大抵は内部から腐って朽ちてしまうからだ。

しかし・・・。

その丸太を恐る恐る触ってみた。

こいつは800年は生きているぞ。
手のひらで直径を計ったり、表皮を割って中の虫卵を調べてみたり、木部を爪で削って食べたりしてみた。アイヌ語で「シウリ・ニ」とは「苦い・木」という意味だ。どんな味かと期待したが、別段苦くはなかった。ただ、シウリ特有の匂いがした。アイヌはこの匂いを嫌ったそうだが、ガキの俺は清涼感のあるいい匂いだと感じた。
そして、
俺の記憶はそこで途絶える。
気づくと俺は母屋の布団に寝ていた。
あとから聞いた話だと、俺はシウリを抱くように気絶して床に転がっていたという。




あの材を使った座椅子をこの武藤銀次郎が削る。
そう考えるだけで心がざわついた。
もとより同門の今井専修など目ではない。朝倉善次郎は?善は水楢を使うと言った。奴は彫刻の腕はもとより、水楢を知り尽くしている。虎斑杢の解釈が上手い。それでも、まったく俺の足下にも及ばないだろう・・・。芝の双子。チッペンデールと言ったか。なぜわざわざ俺たちに主題を知らせてきた?ハッタリの目くらましか?いや、違う。よっぽど自分たちの腕に自信を持っているのだろう。世間から伝わる腕前から言っても、その古典題材で相当の水準の造形を出してくるに違いない。高島屋製作所の鳥居左膳はどう出てくるか。おそらく鳥居はウインザーだ。曲木に長けていると聞いている。俺はそこまで考えて頭を振った。
ケッ。

それでも俺が勝つ。

俺が他所の誰かに負けるはずなどないのだ。
賞金はいくらと言ったか。
確か俺の月給の10倍ほどだった気がする。
そして黒柿の鉋だ。

振り返った。

「詩織」

「はい」

「今度の名匠展、金賞取ったら何が欲しい?」

健一が不思議そうな顔をして俺を見上げた。
「まとまった金になる。どうだ三越で着物でも買ってやろうか」

詩織は困ったようにはにかんだ。
今でも充分に間に合っていますから・・。
小さい声でそう言った。
「テレビ、洗濯機・・・冷蔵庫も買ったばかりだしな」

家が見えて来た。
こじんまりとした平屋の旧屋。
そうか、もっと大きい家にでも引っ越すかな。
そしてその邸宅を俺の家具で調度するのだ。

うーむ。
それがいい。

その時、詩織がぴょんと飛び跳ねた。
「銀さん、私決めた。あれがいいです」

「なんだ?」

「カレーが食べたいです。中村屋の」

カレー?
その答えにカッとなった。

「そんな段じゃないっ!!

俺の価値がその程度だと言われた気がした。
後ろで詩織がキュッと小さくなった。
ごめんなさい。
小声で謝った。

俺は無言で玄関ドアを開けた。
俺が日本一になる祝いだ。
そんな細い欲でどうする。

いつまでたっても田舎の心持ちが抜けない奴だ。

その時ドサリという物音がした。

振り返った。
詩織が倒れていた。
健一が目をまん丸く見開いた顔で母親を見下ろしていた。

「母さん?」
「詩織?」

2人で詩織に駆け寄った。