2015年5月23日土曜日

マウイ☆パラダイス



表参道のカフェで人と待ち合わせている。

早めに着いた僕はいつものように手帳に家具のデッサンを書きなぐって時間を潰している。こうしていると落ち着く。頭の中では、これから会う人との話の成り行きをシュミレーションしている。その手がふと止まった。

さっきからかすかに鳴っているBGM。
MUSEの新曲がJ.レノンのあの曲に変わったからだ。

数秒過去に戻り、
すぐ我に返る。

「これか?」

じいっと
手元の家具デッサンを見つめた。

ずっと手放さなかった僕の居場所がそこにあった。

「上出来だよ」

*********************

1992年

集合住宅の5F。
深夜2時。

煙草に火をつけた。キースのマネをして、ジャックダニエルを1Pグラスにドボッと注いだ。マイファーストSONYのラジカセにジョンレノンのカセットを放り込んで、ボリュームを小さくすると、世界でたった一人になった気がした。薄い糸のような煙草の煙と、ジョンの歌声が一人の部屋の夜に吸い込まれて行った。

自意識過剰の若者はいつもこういう小っ恥ずかしい真似ごとをする。しかし、許して欲しい。若者はいつでも本気なのだ。真似とカッコつけを繰り返して世界との距離を把捉して、いずれ成長して行く。

スターティングオーバー。
Over & Over & Over &・・・。

テーブルの上にリクルートから送られてきた電話帳みたいな就職資料がうずたかく積まれている。僕はイスに体育座りをしてジッとそれを見つめている。チェックして折ったページ。大塚家具、マルニ、コスガ、アニエスb、ギャガコミュニケーション、大建、ノダ。

25歳で新卒だぜ?
もう何もかも遅すぎる気がしていた。

まあ、でもどうでもいいや。
適当に今は幸せだし。
と、ぼんやりしている。


************************

集合住宅の5F
朝9時。

床に放り出すように置いた安いマットレスの上で目を覚ました。

昨日のジャックダニエルが床にこぼれていた。彼女がそれを雑巾で拭いていた。こんな飲み方してると死んじゃうよ?と言って泣いていた。

そんな彼女が着ているプルオーバー。そのパーカーの胸。僕はそのプリントロゴをぼんやりと眺めている。楽しげなロゴデザイン。

MAUI。

その下に小さくパラダイスと書いてある。

「尾崎豊死んだってさ」

言いながらそのロゴの意味を考えている。

「好きだったの?」

マ・ウ・イ・・・?

「尾崎?いや、別に」

なあマウイってなんだっけ?
地名かな。うん、地名っぽいな。

「決まったの?就職」
「まだ」
「ふうん」
「・・・就職決まったらマウイ行こうぜ?」

彼女のパーカーの胸を指差した。

「マウイってどこ?」
「知らね。けど、たぶん楽しいとこじゃないかな。パラダイスって書いてあるし」

僕の無理にはしゃいだ声が部屋にうつろう。

彼女は目を伏せながら言った。

「うん・・それもいいけど、ちゃんと普通に就職活動してね。なんかいつも投げやりだし、すぐ手放しちゃうし」

家具だよ。

それは決めてる。

っていうか・・・。

「普通ってなんだよ?」

手放すって言っても、どこも僕の居場所じゃないような気がするんだよ。僕は僕のピースがピッタリとハマる場所を探しているんだ。ジグゾーの形がさ、僕は特別なんだよ。

************************

集合住宅の5F
数日後。

部屋に帰ったら友達がすでにたむろっていた。軸の外れた地球儀でリフティングしてる奴。その横で壁にペインティングをしている奴。その助手をしている彼女。俺のジャックダニエルをラッパ飲みしてる奴。ウチの合鍵が出回ってるのか?

この前、茅ヶ崎駅前の桃太郎で飲んだ時、確かに約束はした。でも、キッチンの前板を塗るってだけの話だったはずだ。なんだこれは?・・いつの間にか壁がアートされている。

「豪ちゃんさー、こっちも描いていい?いいよね。あー描いちゃった」

あー描いちゃった♡じゃねーよ。

「貸せよ」

刷毛を朝日ペイントのペンキ缶にドプッと入れた。壁にでっかく書いた。

「祝就職」

「おおー」ぱち・・ぱち・・。
まばらで、ぬるーい拍手。

彼女が嬉しそうに近づいてきた。
顔がペンキだらけだ。
手で拭いてやった。

「決まったの?」
「ああ。決まった」

なんとなく幸せ。
こんな感じがずっと続くんだろうな。
でもどうしてだろう。
彼女の嬉しそうな顔を見ても、
そもそも自分自身もな、
ちっとも嬉しい気持ちにならないんだよ。

「普通に生きて行けばいいんだ。
普通に幸せに」

って世間は言うけど。

でもいつも心に引っかかっている。

僕の居場所はどこだ?
僕の・・。
パラダイスはどこにある?

************************

・・・・・・。

************************

・・・・・・。

************************

そして・・・。

あれから22年が経った。

誰もがそうであるように、僕もまた、凄まじい激流に流された。

途方もない月日を経て、

今、

僕はここにいる。

表参道の小さいカフェでアイスコーヒーを飲みながら、取引先の営業マンを待っている。

あっという間だった。
人の心にズカズカと土足で入ってきて、容赦なく僕の「子供」を粉々に破壊する、そんな上司に恵まれた。
僕はほとんど遊ばず、
夢中で仕事に没頭した。

そんな20代後半と30代と40代前半だった。

*************************

その時の彼女とはあの後すぐに別れた。

夕陽の神楽坂で大きく手を振る彼女のシルエットを今でもハッキリ憶えている。すごく悲しい別れだったように思うけど、もう風化してしまった。時々・・その残り砂をカサッと踏んでしまうことはあるけど。

彼女だけじゃない。
僕は、あれから、いろんなものを手にしては失くし、再び手にしては、
再び・・・
失くしてきた。

************************

マウイがハワイ島の隣の島だと知ったのは、それからだいぶ時間が過ぎたあとだった。

「ハワイに行くなら、マウイでしょ。ホノルルなんて初心者の行くとこで・・・」

「あーマウイなー」

「あ、行ったことある?(ペラペラ)」

「いや・・ない」

一生懸命僕をサーフトリップに誘うそいつの話を遠くに聞きながら、僕はマウイという島の風景を想像してみた。

グレーのパーカー、エンジ色のロゴ、筆記体でMAUI。

集合住宅5Fの窓から入る風の匂い。

そよぐ白いレース、安物のカーテン。

揺れる彼女の笑顔の口もと。

遠くかすかなみんなの笑い声。

しかし、思い出すのはそんな甘くて苦いフラッシュばかりだった。

***********************

ジョンレノンはiPhoneの中にいる。

選曲すればいつでも、

Over & Over & Over & Overと

今も歌ってくれる。

でもあの時のように、

夏の夜に心地よく漂ったり、

秋の高い空に吸い込まれたりは・・、

もうしてくれない。

電子音だからかな。
聞き過ぎたからかな、
受け手が大人になってしまったからかな。

きっとその全部なのだろう。

***********************

そして・・。

手元の家具デッサンを見つめた。

ページの端っこにいつの間にかアイスコーヒーの染みがついている。それを手のひらでゴシゴシとこすった。

あの頃からただ唯一、ずっと手放さなかったモノがここにある。

何度転んでも、

バカにされても、

這いつくばって泥んこになっても、

「これだけは、これだけは」

って右手に握って手放さなかったものだ。

家具・・・。

「これか?」

パラダイス(安息の地)ってのは、
どこだどこだ?って探すものではなくて、自分で作り育てて行くものだったよ。

居場所ってのは、
自分のピースにピッタリの場所を探すその先にあるのではなくて、その場所に自分の形を変えていった先で、初めて見つかる場所だったよ。

ってオチだ。

頬杖をついた。

家具ね・・。

パラダイスというにはちょっと地味な感じがするけどな。

まあ・・いいか。
僕にしては、

「上出来だよ」

***********************

それはそうと・・。
そろそろ行ってみようかな。

マウイ。

遥か遥か遠い彼方の、
マウイ☆パラダイス。






2015年5月16日土曜日

空気を読む人作る人


人が複数人集まったとします。何十人何百人でもいいんですけど、例えば小さく3人。

AさんBさんCさんです。

3人の考えていることはそれぞれ違います。大きく違うでも、微妙に違うでもいいです。その大まかな意識の平均値を出すと、それが空気となります。

「空気を読めよ !!」の空気です。

それは、正確に言うと「場の空気」というもので、暗黙のルールというよりもっと自然発生的な何かです。

その平均意識を読めない言動をしてしまう人が、俗に「空気を読めない奴」や「天然か?君は」といわれる人です。

さて、そこを踏まえて、

先ほどのBさんが何らかの目的の為に、その場の空気を自分の思う方へ誘導したいと思うとします。BさんはAさんCさんの言動を注意深く観察し、空気を読み切った上で、突出した言動をその場に投げ込みます。

先ほど言ったように「空気」とは単なるその場の複数意識の平均値ですから、当然Bさんの値(あたい)も含まれています。つまり、空気を読んだ上で、空気を読まない人(この場合ではBさん)がその場の意識の平均値を変えてしまうということになります。

空気が変わるわけです。

言い換えます。

『空気は変えることが出来るのです』

もう少し詳しく言うと、

空気を変えるためには条件があります。

1. 空気を変える大義名分を持っていること。
2. 精密で我慢強い空気の入れ替え作業ができること。
3. 変えた空気がもたらす何かに責任を取る器量があること。
4. 単なる異物とされても良しとする覚悟があること。

結論を言います。

上級者のビジネスにおいて、空気を変える能力は必須能力です。皆が皆、個と集団を背負って自分や自社の意識を語らなくてはいけませんし、それが必要とされる局面であれば、率先して自分の方向へ空気(集団意識の平均値)を変えねばなりません。

「空気を読むだけの人」は出世できません。どんな状況においても「空気を変えることの出来る人」つまり、「空気を作ることができる人」だけが「空気を読むことしか出来ない人」のリーダーとなり、成功していくのです。

僕はそんなことをいつも意識しています。

とか語りつつ、

まだまだ自爆も多いのですが・・・。

2015年5月15日金曜日

人脈作り(僕の場合)


「人脈作りって、コツとかあるんですか?」

と、昔からよく聞かれます。

そういう場では「うーん別にこれといって・・」

とか言ってごまかしちゃいます。

聞かれて、こうでああでって説明するのもな・・面倒くさいなあ。

と思ってしまうからです。

そんなわけで、今まで適当に流してきた懺悔もこめて、

今日は僕が過去に人脈をどう作ったかについてざっと書いてみます。多少でもどなたかの参考になればいいのですが。

***************************

小学生の時、ある担任の先生に散々睨まれてへこんでいたことがありました。彼の口癖はいつも「それは野田が悪い」で、どんな弁明も聞いてもらえませんでした。

たまりかねて父親に相談をすると、「権力に対抗するには人を集めるしかない」と言われました。「この世の中では、大きな人脈を持ち、なおかつそれを効果的に使う者が一番強い」とも。

東大や成田で闘争を繰り返してきた経験を持つ、左翼系の新聞編集長の言いそうなことだ。

まあ、その時はそんなアドバイス・・・小学生の立場でどうすればいいの?って話だったんだけど。

でも、「この世は人脈」という言葉だけは、その後もいつも頭に残っていたので、独立して会社を興した頃、身分違いでも会ってみたいなあと思うあこがれの社長さんたちには直電アポ取りをして会って回りました。

実名をここに書けないは残念だけど、その時のみなさんは実にそうそうたる人たちばかりで、驚くのは、ほとんどのみなさんが無名の僕に対して、拍子抜けするほどこころよく面会してくれました。

ちなみに、アポ取りの秘策なんてまったく無くて、

「最近独立して、家具の仕事を始めたのですが、後学のために5分だけでもお話を聞かせて下さい」

そう言っただけでした。

その社長さんたちは僕にアドバイスを与えるどころか、最終的には、次の会うべき人も紹介してくれました。一年間で35人にお会いしたのが、今でも手帳に残っています(タイトル名 : 突撃社長面会シリーズ)。

まさに社長さんの輪。
ありがたい話です。

結局、翌年からも次が次を呼んで、
それにどんどんドライブがかかって、
広範囲に広がって、
そして、今に至ります。

****************************

うーん。
本当にボンヤリと書いたな・・。

****************************

最後に、僕の考える人脈三大原則を書いておきます。

(ちなみに、僕にとっては単なる「知り合い」と「人脈」は厳密な違いがあるのですが、詳細を書くといろいろと差し障りがあるのでここでは控えます)

1, 待っても人脈は作れない、追え。
2, 使わない人脈は宝の持ちぐされ。
3, 手入れをしない人脈は無くなる。

2015年5月14日木曜日

敵わない人 - short vir.



仕事で出会う人。

その中で「うわ、敵わないなこの人には」

と思う人がたまにいます。

敵わないことが素直に受けいられる時・・。

それはいいです。

でも、どうしても受け入れられない時ってありますね。

そういう人っている。

辛いですね。

だって敵いたいのに敵わないことが、

自分でよくわかっているから。

自分の小さなプライドがギュウッと苦しくなりますね。

そんな時、

心はいつも逃げ場を探します。

自分をなぐさめてしまいます。

立場が違う。(土俵の違いにして)
生まれが違う。(運命まで出してきたり)
年齢も違う。(年齢差の幻想にすがったり)
僕だって本気になれば、(性格の違いの盾で)
もういっそ・・。(武装したと思ったら)
賞賛側に回ろう。(うわ、逃げた)
僕は僕らしく。(あっ閉じこもった)

心はバランスを取ろうとします。

でも、本当に成功したいならそれではダメだ。

足がプルプルしてもその人の前に立とう。

それができる人は成功してもしなくても、

常に美しい成功者であると思う。

陽のあたる坂道を行く人は、

大抵そうやって自分と闘っています。

さて、今日もやりますか。

とりとめのない話でした。






2015年5月13日水曜日

我南方戦線ヨリ帰還セリ



南の孤島。塹壕の脇。累々と積み上げられた死体の前で、男は友の顔を見つけた。骨まで溶けるような熱射の中、男は膝を折った。天空遥か遠く、ゴオンゴオンと爆音を轟かせてB29が飛んで行く。ああも巨大な飛行機が飛ぶのか。敵国の技術力に悪寒を憶えた。そしてあれが東京に向かっているのだ。かあさん・・どうか無事でいてくれ。少しおっちょこちょいでヤキモチやきの妻の顔を思い出した。そして妻の足に半分かくれて、出征する私を見送る娘の顔。

滝のように流れ出る汗が目にしみた。まばたきをして友の顔に目を戻す。「貴様は禿げるタイプだな、俺はきっと年をとってもふさふさだ」昨日の晩、そんな他愛もない話で笑い合った友がここに死んでいる。馬鹿。禿げるも何も貴様はこんな所で死んでしまったではないか・・。男はよろよろと友の両脇に腕を入れ、渾身の力で死体の山から引きずり出した。顔にかかる前髪をきれいに整えると、あぐらに座らせてやった。

生き残りの何人かが慌ただしく走って行く。その一人に、「貴様、撤退だ。乗り遅れるぞ」と声をかけられた。男は友の前に座り、空を見上げた。高く高く青い青い空が永遠に広がっていた。口を開けてその空をしばらく見つめた後、男は友に顔を戻し、言った。「わしは沢山敵を殺した。味方はもっと沢山殺された。」山の方から蝉の大合唱が聞こえ始めた。「もうごめんだ。わしは生きるぞ。妻と子と幸せに、平凡に、ただ暮らすのだ」その言葉を吐いた途端、男は自分の体にとてつもなく大きな気力が湧くのを憶えた。男はすっくと立ち上がった「そうじゃ。わしは生きる、生きて子供をたくさん作ってやる。死んだお前や同胞や敵国の兵隊の分まで子供をつくるぞ !!」風が吹いた。「さらば !!」男は友に背を向けて駆け出した。

その後、男は内地に戻った。東京はなんにもなかった。桜新町も文字通り何もない焼け野原が広がっていた。ようやく自分の家のあった場所を見つけた。男はそこに座り込み何日も家族の戻りを待ち続けた。

ある日、男が近くの井戸のポンプで水を汲み、痩せて疲れきった体を洗っていると、砂利道の向こうに人影が見えた。蜃気楼の中でゆらゆらと揺れる人影。小さな子供の手を引く女の姿。「あーあーあー!!!」男は声にならない声を出した。「かあさん!!」男は走り出した。女が手に持った荷物をドサリと地に落とした。「とうさーん!!」「フネ !!」抱き合った。「おとうさん・・」子供も飛びついてきた。小さな手で波平のズボンをギュウッと握った。「サザエも無事だったか」三人は砂利道の上でずっと抱き合った。

***************************

少子化にまつわるレポートを書くために、第一次ベビーブームと第二次ベビーブームを調べていたら、「サザエさん」のサザエとカツオ(ワカメ)の年がどうして離れているか、というスレを見つけてしまい、設定では波平が戦争に出ていたからだと知った。

結局、波平のような戦争帰りの人々が第一次ベビーブームを作る(1947~8)。そして必然的にその子供たちが成人し第二次ベビーブーム(1970~75)を作るわけだ。

****************************

波平が南方戦線で何を見たのか。あの平凡で幸せな磯野家はどうしてあんなに平凡で幸せ足り得たのか。そう考えたらどうしてもこんなショートを書きたくなってしまった。

戦争という狂気をくぐり抜けた人間が子づくりに向かう。一見すると短絡的に見えるその行為、しかし、僕は、そこに人間という生物の、底知れないダイナミズムがあるように思う。

生物のダイナミズム?難しく言うことはない。今日も僕らを動かして止まない、この大きなもの。

****************************

それが「愛」だ。










2015年5月12日火曜日

ダリは戦車に乗ってやってくる (後編)


戦車は外苑西通りを進んでいる。僕はまんじりもせず総革張りのシートに座っている。

「ところで、野田さん」

ダリが僕の方を見ずに前を向いたまま言った。

「私は今から行く私の家に2年と住まない予定だ」

低いバリトンが朗々と車内に響く。

「それでもその2年間を最上の家具に囲まれて暮らしたい」
「はい」

はいと僕は答えたが、答えてから嫌な予感がした。僕らの家具の最大上代価格がこの人に見合わなかったらどうしようという不安だ。果たしてダリは言った。

「引っ越したばかりで何も家具がない状態なので、君のデザインで全て作って欲しいのだが、特にリビングのキャビネットにこだわりたい」
「大きさは一般的なものでしょうか?」
「そうだ。腰くらいの高さで、横はそうだな・・2mほどだろうか」

何のことはない。簡単な話だ。僕は頭の中で重厚な4枚扉のリビングボードを想像した。全体イメージはゴシック。4本脚構造で、フリッチ材(KD材)を4枚も合わせれば重厚感が出るだろう。合わせ目は装飾溝で飾る。いや・・ちょっとまてよ・・。

「目安としてお伝えしておくが、私はそのボードを1000万程度で作っていただきたいと思っている」

~~~っ!!
やっぱりだ。
完全に最大上代価格が見合っていない。

ダリがC社で購入を諦めたのは、そのポイントであった。彼は100万200万程度のボードなど必要としていないのだ。僕らはフロントが販売店であるため、誤解されることも多いが、自社でデザインを起こし、設計をし、製作だけ外部工場に委ねるという歴としたメーカーである。もちろん価格を決めるのも僕らなので、そのサイズのキャビネットを作って、勝手に「はい1000万円です」と言って販売もできる。しかしそれはビジネスモラルとして許されることではない。

呆然とする僕をよそに戦車が坂を上がって行く。永遠に続く高塀がその坂に沿って続いている。こんな所にこんなマンションがあったのか・・・。

都内の超高級マンションはまず低層だ。そして、普通の人にはその入り口が分からない。人が溢れる都会の真ん中に、誰も気づかないようにして建っているものなのだ。

戦車を降りた。エレベーターの前に立つ。
頭ではめまぐるしく計算を繰り返している。今手に入る最高の素材。日本最高の匠、最高の工房、最高の彫刻家。もはやモダンやシンプルで追いつく予算ではない。デザインベースは?・・・ゴシック?バロック?いやヴィクトリアか。ブツブツ言っている僕をダリが横目で見ている。

エレベーターを降りた。玄関は一つしかない。一戸=ワンフロアなのだ。玄関ドアを開けて中に入った。軽く二部屋分はある玄関だった。ダリが言った「キャビネットは各部屋に一台づつ欲しい。その他の家具は適当に見繕ってくれ」

部屋を回った。各部屋は普通のマンションのLD分ほどの大きさで、全部で9部屋あった。ここを寝室にして、ここを書斎。ゲストルームはここか。頭の中で見積もりを立てて行く。くそっ。せめて計算機を持ってくればよかった。携帯に入力しながらそう思った。一回りして帰ってくると、ダリが言った。「いくらだ?」まあ、そう来るだろうなとは予測していた。

僕の持っている情報量はあの戦車とこのマンションと奥様の身なり・所作とダリの言ったリクエストのみだ。ダリの目。もう疑いようもない。完全に僕を試している。

「1200万から3000万です」

ダリの目が少しだけ驚きに揺れた。
今だと思った。
やっとこちらの順番が回ってきた。

「あなたのリクエストに「できません」とお断りするのも、内緒で値段を高く吊り上げるのも、僕らに取って実は簡単です。しかし、僕らの想像の及ぶ限り、そのリクエストに見合った最高の家具と空間を公平にお作りすると、その金額になります。デザインはゴシックベースで行きます」

1200万と3000万の差は彫刻や象嵌を入れるか否かの差であった。ダリが初めて笑った・・ように見えた。そして言った。

「高い方でやってくれ」

帰り道、僕は息を詰めながら長い塀の坂を下った。足がふわふわしていた。大工工事抜きで一件3000万の受注は初めてだったからだ。外苑西通りに出た。いつもの風景。僕はようやく詰めていた息を吐き出した。携帯を取り出す。

ナツ「もしもし?社長?無事ですか?」
僕「ん?なんだ?」
ナツ「だって誘拐されたって・・・」

誘拐ね。誘拐ではないけど、確かに何かを根こそぎ持ってかれたような気がする。少なくとも僕の常識の天井は完全にダリによって破壊された。くそ。いつか1000万の金額に見合うリビングボードを作ってやる。

僕「まだまだウチは大きくなるな」

そう言って携帯を切った。

*******************************

後日譚 1

あの部屋に連れて行かれたショップは僕で4人目だったそうだ。賃貸価格は300万/月。そして、ダリとは今はもう連絡が取れない。ただ、風の噂では彼はロンドンまであの時の家具を持って行ってくれたらしい。

後日譚 2

その後リーマンショックの猛威が東京を襲い、それを皮切りに東京は例のフワフワ感を失ってしまった。超のつく金持ちもどこかに消えてしまった。

********************************

2015年現在。

僕「ダリ憶えてる?」
ナツ「あーー」
佐々木「懐かしいですね」
僕「あの時、凄い客多かったよな」
ナツ「でも、最近戻ってきてるよ」
佐々木「ですね」

そうなのだ。今、東京は再び活気を取り戻しつつある。

*********************************

そして・・。
あれから9年。
今、僕らは1000万のリビングボードを作ることができるまでに成長している。

*********************************

おしまい。




2015年5月11日月曜日

ダリは戦車に乗ってやってくる (前編)


2006年。

表参道ヒルズがオープンしたその年、僕らは外苑前にインテリアショップ・「AREA Tokyo」をオープンさせた。

この時期の周辺では、2003年に六本木ヒルズオープン、2007年、東京ミッドタウンオープン、同じく2007年、新丸の内ビルディングオープン、2008年、赤坂サカスがグランドオープンしている。

青山、代官山、広尾、中目黒、六本木、赤坂、丸の内。この時代の「狂乱東京再開発協奏曲」を先導したのは小泉元首相の規制緩和政策だった。僕らはこの時代のど真ん中に神奈川から東京進出を果たしたのである。景気の追い風に吹かれた良いタイミングだったと思う。

あの時の東京。今でも憶えている。街の空気が浮ついていた。上品な服に身を包んだ男たち女たち。みんな足取りが軽やかだった(ちなみにその後ファストファッションが入り一気に街がみすぼらしくなるのだが・・)。東京カレンダーやLEONなどの雑誌やタウン系ネットニュースでは毎日新しいトピックスが追加されて、誰もがことごとくそれに乗っかった。It's Brand-New-Daysだ。そして、この景気は後に、「ITバブル」に続く「実感なき好景気」(第14循環・73ヶ月間)(いざなぎ越え)という正式名称を与えられた。

実感なき?

当たり前だ。オンリー東京の景気浮揚だったのだから。

**************************

メルセデス、BMWはもとより、マセラッティ、フェラーリ、アストンマーティン、AREA Tokyoの前にはぞくぞくと高級車が止まった。200万を越えるソファや1000万を越える壁面収納が右から左に売れた。広告代理店社長、大手外資IT会社取締役、大手新聞社重役、不動産チェーン社長、大御所女優、現役スポーツ選手などなどがお店に溢れた。忙しく、しかしキラビやかな日々の中、僕らは自分たちの成功を知った。

そんなある日、店に戦車みたいな車が止まった。見たこともない車だった。ちなみにこの車は後になって判明するのだが、その名前をここでは言えない。世界中を見ても所有者が少ないため、ここに書くとそのお客様名が判明してしまうからだ。

真っ黒のウィンドウがゆっくりと下がり、しばらくしてまた閉められた。すると、バクリと分厚い音をたてて後部座席のドアが開いた。僕はカウンターからゆっくりと立ち上がる。VIPなのは間違いない。しずとしずと小柄な和服の女性が降りてきた。お店に入店すると彼女はスッと僕にお辞儀をした。

驚くどほど美しい所作のご婦人だった。「いらっしゃいませ」僕も慇懃に頭を下げて名刺を取り出した。「私がおうかがいします」するとご婦人は「ありがとうございます」と答えて、ふいっと車に戻った。今度は逆側の後部座席のドアが開いた。大柄な初老の男性がぬうっと降りて来た。僕はその顔を見てウッと喉を詰まらせた。

なんと表現すればいいのだろう。常人ではないのだ。この世の威厳を全部集めて人の形にしたらこんな人物になるのだろうか。そんなふうに思った。政治家でもない。ヤクザでもない。その程度なら何人か知っているが、その類いのオーラとは根本的に違う。

そのお客様はサルバドール・ダリのような口ひげをいじりながら僕を見下ろし(本当に大きいのだ)た。そして、「この店を友人から聞いた」とぶつ切りなしわがれ声で言った。「ありがとうございます」と返すと、男は、フウゥームウン(字で書くと変だが)とジャバ・ザ・ハットみたいな野太い吐息を吐いた。「君、今から家に来てもらえないかな」そして彼は初めて僕の目を見た。上まぶたと下まぶたが黒目に接していない、そんな剥き出しの視線だった。

その時、その剥いた目(確かにあの目はダリや岡本太郎などに近い)に僕はなんらかの直感を感じた。試されているのか?この目は・・ああ間違いないな・・これは人を試している人間の目だ。即答だ。即答しろ。と自分に念じた。蛇に睨まれた蛙という言葉があるが、それに近い。すぐに口が開かなかった。しかし、こちらも自負がある。接客業として散々修羅場をくぐり抜けてきた自信だ。目の前で床の間の日本刀を抜かれたこともある。「かしこまりました。参りましょう」ようやく声が出た。少し声が震えていただろうか。彼の顔を見た。口の端が微かに笑った。ぎりぎり合格したということなのだろう。結局、僕は手ぶらでその戦車に乗り込んだ。

******************************

ナツ「大変!社長が連れて行かれた!!」
佐々木「うん。あれはちょっと普通じゃなかった」
ナツ「え?人さらい?ってこと?」
佐々木「まずいわね・・・」
ナツ「け、け、け、警察に・・」

これはその後二人から聞いた話。2時間経って連絡がなかったら、警察に連絡する予定だったそうだ。

つづく。


2015年5月1日金曜日

真の芸術、デザインとの境目


芸術は醜いものを生み出すが、しばしばそれは時とともに美しくなる。一方、流行は美しいものを生み出すが、それは常に時とともに醜くなる。
--   Jean Cocteau



☞ 芸術について語る時、僕は常に慎重になる。ただ言えることは一つだけである。それはつまり「表現者」が作った「表現物」と「それを知覚する者」が精神的、肉体的に相互作用すること、という基本部分のみである。

ここにおける表現者、表現物、知覚するものというのは人でなくてもよい。例えば地球は神が作った芸術だと我々は知っている。などということも当てはまるのだ。

その意味では、およそ人の作った芸術など非常に狭義の世界における一事象であり、各々が唱える芸術論は所詮各々の論であり、それぞれに正しいのだ。それなら殊更に主義を振り回すのは少し滑稽ではないか。・・・自由でいいのだ。

そんなことより、僕としては、芸術が生まれる瞬間にこそこだわりたい。芸術とは知覚するものがあって初めて芸術足り得る。発見前のツタンカーメンの埋葬美術がハワードカーターによって発掘されたその瞬間、紀元前の祭器は時を越え、ポタリと我々の前に芸術として生まれたのだ。

☞ さて。今日も僕は家具をデザインしているのだが、モノを生み出すにあたって根強く考えることが二つある。

まず一つ目が商業デザインと芸術の境目だ。異論もあるだろうが、ひとまず簡単に言えば、「商業デザイン」とは知覚するものを前もって想像(マーケティング)して表現者が作る表現物であり、「芸術」とは知覚するものを意図しないで表現者が作る表現物ということになるのであろう。

しかしこの問題については僕の中でほぼ答えが出ている。例えば、よく知り合いに、「あなたのデザインは普通じゃないよね」と言われる。無駄に大きかったり、変な所からツノが飛び出したりしているからなのであろうが(結局そこを好んで使ってくれている人が多いのだが)、これは知覚者をまったく無視した僕個人の創意からくる造形なので、個人的「芸術」にあたる部分なのだろう。

また、「あなたのデザインは古典がベースだよね」と言われることも多い。シェーカーやゴシック、バロック、F.L.ライトを連想させるパッケージは過去の教典から引っ張り出してきたものであり、これは人が流行を問わず惹かれるものとして、半ば意識的に引用している。ビートルズの原点が賛美歌やプレスリーだったり、プレスリーの原点がブルースコードだったり、オアシスの原点がビートルズだったりするのと変わらない。アンセム(古典教典)主義を用いるということはマーケティングに他ならないのだ。

つまり、「商業デザイン」か「芸術」か、という二つの対立は、それらの配分はどうあれ、僕の中で同居・融合という結論として、ある程度解決されて終了しているのである。

二つ目は真の芸術やデザインとは「幸福」や「不幸」、つまり人の極端な感情の最たる所(ピーク)から生まれるという事実である。言うまでもないことだが、世界の芸術とはほぼこのどちらかから生まれている。極貧の中から生まれた「ゴッホ」「ゴーギャン」の作品とメディチ家に飽食を約束された「ダ・ヴィンチ」「ミケランジェロ」の作品など、または戦時下に生まれた数々の音楽・美術であり、パックスロマーナの元に享楽的なラテンの血を介して開花したローマ文化がそれにあたる。

喜怒哀楽の極端なところで芸術が開花するのなら、ぼんやり生かされている不幸でも幸福でもない我々現代日本人はたいしたものは生めないということになるのか?それを考えると少し薄ら寒い気持ちになる。

☞ 初述のジャン・コクトーの言った「醜いもの」とは誰かの個人感情(喜怒哀楽)のピークであり、それが時を経て美しくなるのは、時間という俯瞰がもたらす一個の人物への「人間賛美」である。一方、流行・・マーケット=集団感情の平均値は喜怒哀楽すら平均値化されるので、時の重みに負けて突出できず醜くなるという考察となる。

僕は1000年後も使い続けらている家具を生み出したい。それ故、こんなことをグツグツと毎日考えている。