2015年8月2日日曜日

刃鳴り 4 (最終章) 「日本一」


若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編 5 

[ 稀代の削り師 武藤銀次郎 ]






sub-episode 5

「刃鳴り」

                           
4
最終章
「日本一」



刃が鳴り始めた。

しばらく手の中の鉋(カンナ)を見つめていた銀次郎がふと顔を上げた。

開け放しの木戸。
その向こうを見る。

外は細かい雨が降っている。

その恵みに打たれて、新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。

儂の目はもうほとんど見えない。
この数日、何も口に出来ていない。

わき立つ山の匂い。
遠くに渓流のせせらぎ。

***************************


格子の隙間で欅(けやき)の緑が揺れている。油蝉の合唱がふと止まり、代わりに涼やかな風が舞い込んで来た。木工所の床板がひんやりした温度を素足に運んでいる。皆が出社する前の静かな時間だ。

「どうしても行ってしまうのですか?」

善次郎が下唇を噛んでうつむいている。

「ああ」

「詩織さんも望んでませんよ、こんな・・・」

「ああ」

「世間の口もすぐに収まります。あの分からず屋の社長だってちゃんと説得すればきっと分かってくれますよ」

皇族出席という話題もあり、名匠展のニュースはTVや新聞各紙で大々的に取り上げられた。一晩で伊藤銀次郎の名前は全国に広まった。日本の若き名匠の台頭。それは復興のシンボルとして打ってつけの素材であった。ところが、その影で、ある大衆雑誌がひっそりと死んだ詩織の記事を掲載した。その情報は瞬く間に広がった。あとは負の連鎖だ。「妻殺し、鬼の名匠」最後は、カストリ雑誌までが俺と詩織のあることないことを書きなぐった。ご丁寧に妻の生き血をすする鬼の挿絵付きだった。一転、世間の風評が俺に牙をむいた。俺はあっという間に悪の烙印を押された。鬼、人でなし、人非人という文字が見出しに踊った。一度そのような火がついたらもう止まらない。その後はひどいものだった。木工所には連日記者たちが詰めかけた。誰ともわからない者が、夜中のうちに、製作小屋のガラスをすべて叩き割った。しばらくして会社から社長命令が下った。武藤銀次郎は辞表を出せ、と。当然の判断だった。

しかし・・・。

「そんなことはどうでもいい」

「じゃあ何故なのです?」

詩織の葬儀は旭川で行われた。喪主は師匠だった。俺は出席しなかった。健一はそのまま旭川にとどまった。葬儀のその日、俺は一日中、粉々になったあの椅子の破片を見つめていたのだ。俺は幽霊の残骸をただひたすら見つめていた。なぜ、こんなものを作ってしまったのかまったく分からなかった。今でも分からない。分かっているのはたった一つ。

俺にはもう椅子は削れない。ただそれだけであった。儂のがらんどうの心に、それだけがたった一つコロンと転がった。

「俺は・・・もうダメだ」

「ちがうっ」

善次郎が自分の頭を手で押さえて言った。

銀さんはすごいよ、あんたはすごい。誰が認めなくてもあしだけは一番それを知ってる。それじゃダメですか?ダメなのですか?」

油蝉が再び勢いを取り戻した。
俺は布袋を掴むと立ち上がった。

「銀さんっ !! 」

「じゃあな、善次郎」

善次郎が震えている。
俺は歩き出した。

「銀さん、そんならあしも辞めるぞっ。木工を辞める。けど、あしは・・・あしはあんたのようには逃げないぞ。社長になってやる。この会社の社長になって、それで・・・それで銀さんを連れ戻すんだ」

善・・・違うんだ。
そういうことではないのだ。

儂は入り口の木戸をくぐった。

蝉の夏に包まれた。

大きな入道雲が品川の方角に湧いていた。
背中で善次郎が泣きながら叫んでいた。

「銀さん、カンナは・・カンナだけは捨てないで下さいよ。あと・・あとは・・カンナはそこら辺に転がしちゃあダメですよ。作品が終わったらちゃんと蹲踞(そんきょ)ですよっ。棚に立てかけて礼をして終うんですよっ」

*************************

蜃気楼の向こう。
バス停に会津下駄の男が立っていた。

「よお」

白い開衿シャツの前を開けて中の見事な入墨を晒している。不機嫌そうな顔の裏にどこかもの悲しい色が宿っていた。

三島新一だった。

「やはりそういうことになるのかよ」

「・・・」

「ケッ」

三島新一が紙片をホレと突き出した。

「小田原の空き家だ。俺が芝(会社)から譲ってもらった小さな庵だが・・・」

吐き捨てるように言った。

「お前にやる」

無言で受け取った。

「いずれ戻って来い。お前みたいのがいないと張り合いがなくていかん」

白いシャツが背中を向けた。

俺は、しばらくの間その紙片を手で弄っていたが、やがてそれをポケットに入れた。

土埃を上げて鼻付きのバスが止まった。

*****************

その後・・・。

日本全国を転転とした儂は、ある日思い立ったように三島新一から譲り受けた、小田原の庵を訪れた。草に埋もれた小さな小屋は20畳の畳間と10畳の土間しかなかった。土間の端に小さな炊事場があった。庵の下には小さな医院があった。その個人医が庵を訪れて名乗った。「武藤さん、いやあ偶然ですね、お忘れですか?奥村ですよ」かつての詩織の担当医だった。奥村が去ると、儂は無言で風呂敷を広げ木工道具を並べた。誰に乞われることも無く、ただひたすら箸を削り始めた。

*****************

ある日の朝。

一人の学生が庵に現れた。
ほれぼれするような大男だった。

その学生はのっそりと板戸をくぐると、奥で箸を削る儂を見据えて行った。

「墜ちたものだな」

細く眠そうな目がさらに細められた。

健一・・・。

『父さんは日本一』

儂の足に絡み付いて来た幼子の面影は一つもなかったが、まぎれもなく健一だった。胸の奥の熾火が揺らめいた。

やがて、健一がボソボソした声で言った。

「父さん・・・。俺は決して父さんを許さない。あなたの言う家具を呪って生きてやる。呪うために・・・俺は家具をやることにした」

儂は何も言わなかった。
口が開かなかった。

開いたとたんに儂を儂として保っている根本が壊れてしまいそうだったからだ。本当は駆け出して抱きしめたかった。地に額を擦り付けて、一万回でも謝りたかった。儂のせいで、ずっと苦しかったろう、つらかったろう。それを押し退けて、よう大人になった。ようここまで大きくなったと抱きしめたかった。しかし、どんな筋があって儂にそれが出来ようか。儂にそんな権利は一粒もないのだ。

「それで善かろう」
とだけ言った。

健一が太く息を吸い込んだ。しばらく息を詰め、儂を睨み、そして静かにそれを吐いた。

「それだけを言いに来た」

健一がのっそりと出て行った。

**************

ある日の朝。

高級スーツに身を包んだ小男が黒塗りのクラウンに乗って現れた。

「・・・・」

アンパンみたいな丸い顔の小男はしばらく無言で、箸を削る儂の手元を見つめていた。

その顔に涙が一筋、流れて落ちた。

夕方にさしかかった頃、その男は意を決したように自分の膝をパンと打つと、庵を出て行った。

儂は威風堂々とした善次郎の背中を無言で見送った。

**************

そして・・・。

時は流れる。
飛び矢の速度で。
それはもう、
ただひたすら、
静かに。
そして、
おごそかに。

*************

ある日の朝。

風のように一人の少女が舞い込んで来た。
涼しい目元の美しい娘だった。

「銀さんだ !! 」

訝しげな目を向ける儂に少女が言った。

「あ、朝倉です。朝倉舞ね、善爺の孫。伝説の銀さんに一度会いたかったの。おじいには内緒で来ちゃった」


『あしは朝倉と申します』
『兄さんお名前は?』
『武藤、武藤銀次郎』
『あしは朝倉善次郎です』
『似た名だな』
『似てますね』

善次郎の孫。
荘八の娘か。
面影がある。

「銀さん、あのね、私、天才なの」

天才?

「・・・なんの天才だ」

「販売よ。もう誰にも負けないんだから。日本一よ ! 」

日本一?

「・・・日本一何を売る」

舞がキョトンとした顔をした。
そしてケタケタと笑った。

「家具に決まってるでしょ。あたしは善次郎の孫だよ」

家具・・・日本一。
胸に疼痛が走った。
若かりし頃の苦渋が胃から逆流してきた。

「ねえ、また来るね、いいでしょ?ここ、なんか落ち着くんだ」

****************

そして・・・。
その日が来た。

『あ、じいさんが銀さん?』

石田春吉。
奴が来たのだ。
そのくそ生意気な坊主は薮から棒にこう言った。

『あーえーっと・・・
椅子を作ってくんねーかな』


儂にまつわる全ての事情を知った上で奴はそう言った。他人の気を知らんでモノを言う愚か者ではなかった。真逆だ。奴は、すべて知った上で覚悟を決めて厚顔無恥で素っ頓狂を振る舞える剛の者であった。

****************


[ 間奏 ]


僕らは知っている
結ばれた糸は人を放っておかない
ひとたび結ばれた情はつながって行くのだ

喜び
憧れ
後悔
怒り
憎しみ
哀しみ

連綿と続くそのつながりを何と呼ぼうか。

つながりは新たなつながりを呼ぶ。
そしてさらなる複雑な織りを紡いで行く。
出来上がったその織物を・・・。

僕らは何と呼んだらよいのだろう。

それを歴史と呼ぼうか
それを運命と呼ぼうか
それを宇宙と呼ぼうか

それは
永遠に奏でられる歌のように
命の限界を越えてつながる・・旋律か

何万語にも及ぶ運命の奏(かなで)であるか


いいや
もうそれは一言で良いのだ

喜びも
憧れも
後悔も
怒り憎しみも
そして哀しみでさえも

それら一切合切を
僕らは・・・



「愛と呼ぶべきなのである」




**************

儂の前にシウリ桜があった。
気が遠くなる昔。
儂が火のように若かった頃。

身をよじらせて心焦がれた材が・・・。
今、目の前に転がっていた。

『あのシウリか?』
『ああ。あのシウリだ』
『なぜお前があの材を持ってる?』
『旭川の仙人を口説いたんだよ』


師匠・・・まだ生きていたか。

化けもの桜が15枚に縦割りにされて、儂の前にその身を晒している。灰紅の木色。手ですくった水を投げつけた。飛び散って濡れた所から薄桃色に染まった。覗き込んで、儂は老いた我が目を見開いた。目が細かい。いやそこではない。この組織・・・。指を置いた。材の表面をなぞる。ああ・・・。見たことのない細かい渦と、それを巻き込みうねる大きな波が、びっしりと・・・壮絶な杢を形成していた。もう一度 指し水を投げた。ああ・・・色が深い・・。桃色から紅。まだまだ変わる。これは、もう・・・深紅だ。こんな桜・・・見たこともない。

その時、
やにわにシウリの目がこちらを見た。
二つの目玉に、ぎょろりと見られた気がした。
儂は二、三歩後ろによろめいた。
ドサリとその場に尻餅を突いた。

儂にこれを削れるのか?
神話の化け物に素手で挑むようなものだ。

無理だ。

御主・・・。
アイヌの神木。

無理だ。
儂には無理だ。
文字通り刃が立たない。

『お前では足らんのだ』

かつての師匠の言葉が頭に甦った。

ピィィ
腹を空かせたトンビの甲高い鳴き声が外から聞こえた。

儂はその場で意識を失った。
シウリの前で意識を失うのは、子供の頃と、これで二度目であった。

******************

あぐらをかく俺の前に今井専修が立っていた。片唇を曲げて皮肉の笑みを浮かべている。儂は言った。「どうした専修?お前は死んだと聞いたんだがな。ずいぶんと若いナリで出て来たじゃないか」今井専修がフンと笑って言った。「ならこの俺はお前の夢なんだろうさ」「夢?」「そうさ、夢さ、お前のな」「・・・そうか」「そうか、じゃないぞ、銀?」「なんだ」「なんだじゃない、俺が遠い昔にお前に教えたことがあるだろう。それを思い出せ」「お前になど教えを乞うたことはないね」「いいや、教えた」ふうっと別の男が専修の前に立った。三島新一だった。「よお、ぼけなす」「なんだ次はお前か、お前もとっくの昔にくたばったはずだぞ、事故死だろう?ボケッとしてっからだ馬鹿」「銀、てめえ、俺がお前に教えたことを今でも分からねえでいやがるのかい」「・・・お前も専修もわからねえことをいいやがる。一体なんだってんだ」「よく思い出せ、銀次郎」「知るか。大体、てめえら死んでまで俺の前に現れるんじゃねえ」専修が悲しい顔をした。それを見た三島兄が肩をすくめた。行こうぜ?どちらかが言った。なんだ。もう帰るのか?ちょっと待て。今少し儂は楽しい心持ちだったのだ。「お、おいちょっと待てよ。もう少し話して行けよ。儂はよ、お前らより長く生きたけどな・・・なんというかだな、少しな、寂しかったんだよ。あの時もっとよ、お前らと話をしたり酒を飲んでりゃ良かったってよ・・・今は思うんだぞ。なあ、待てよ。そう急ぐなよ。しかし、2人の影はゆっくりと消えて行く。ちぇっ。なんだよ。また一人じゃねえかよ。儂がまた一人になっちまうじゃねえかよ。

それにしても・・・。

ああ・・・腹が痛えなあ。

******************

シウリの上で目を覚ました。
亀腹がギリギリと痛んでいる。

儂はゆらりと立ち上がった。
黒柿の鉋が手の先に転がっていた。
あわててそれを拾う。
また善次郎に怒られちまうからな。
蹲踞(そんきょ)とか言ってよ。

その時。
心に何かが、ぶつかった。
ふいに2人の教えを思い出したのだ。

『奴の木工は力づくだ。モクを押さえつけてもいい作品は生まれんよ』

そうか・・・そういうことか。
・・・・。
それを言いたくて出て来たか専修よ。

『お前が背負ってんのは自分だろ?だからお前はちっぽけなんだよ』

三島新一・・・。
そうだ・・・その通りだ。

奴らの言葉が、奴らの教えが、今、心に溶けて行く。ゆるゆると、心の底に暖かい温度が広がって行った。

目を閉じた。
 
「独りだったなぁ」

儂の唇が薄い笑みの弧を描く。

「儂はずっと独りだったなぁ。
思えばたくさんの友がいたのになぁ。
なんとまあ愚かであったことか・・・」

独り言が勝手に口を突いた。

しかし、
まだおぬしがおったな。

儂はシウリをもう一度見下ろした。
ぎょろりとした目など、どこにもなかった。
シウリはシウリだった。
目などあるはずもない。
ただ・・・。

儂は口を開いた。

「シウリよ・・。アイヌの神よ。
 儂でいいのか?」


『木と会話する? 
何をぬかす。
木は木だ。
人ではない』


ついに・・。
儂の渇ききった体から涙がこぼれた。驚いて手で目を触った。子供のように泣いた目をこすりながら言った。

「儂はいろんな木を削ってきた。だが、やはり儂はお前だけを削るために生まれて来たのだ。だが、それは・・・儂の都合だ。お前の都合はどうだ。お前はどう思う?儂に削らせてくれるか、とそういうことなのだが・・・ああっくそっ」

涙が後から後から流れ出してきた。

くそう。

老いぼれになってこんな種類の涙など流してはいけないのだ。こういう涙を流していいのは、いくらでもやり直しのきく若い者だけなのだ。

左手で目頭をグッと押さえた。
右手で黒柿の鉋を握りしめた。

「頼む。儂にお前を削らせて・・」

その瞬間。
庵に音が弾けた。
ベキッとも
バキッとも
取れる音だった。

木が弾けて割れる音?
足下の木端が20cmほど割れていた。
100年近く乾燥してきた木だ。
割れや反りなどとうの昔に出尽くしている。

それが割れた。

返事であろう。
これはシウリの声であろうと思った。
どっちだ?
削るなと言ったのか?。
違うな?
お前は儂に削れと言ったのだろう
・・・。

「そうだな?」

すうっと、
銀次郎がシウリに飛びついた。
遅くも早くもない、流れるような動きであった。

鉋をシウリの身に当てた。

「ありがとよ」

サクリ。

削りの一足を入れた。

銀次郎の最後の木工が始まった。

*******************

半月後。

今日も儂はシウリを削っている。

だいたいの手順は頭の中にあった。もう半世紀近く考えて来た手順だ。

しかし。

造形やデザインなどどうでもいい。こいつが思うところを切り出してやるだけだ。その一方で俺が思うように仕口を取って行くだけだ。最後にどのようなものが出来上がるか。詰まる所、それは儂やお前の知る由ではないのだ。

お前も、儂も、結局は何ほどのモノではなかったのだな。儂らの我(われ)だけを並べてしまえば、この世における数多くの我(われ)の内の単なる一っづつであるだけだ。

しかし。

お互いの我(われ)を抜け出し、共同して産み出されるこの何かは、俺とお前にとっての我(われ)以上に代え難いモノとなるのだろうな。

そういうことか。

人も木もこの世のありとあらゆるモノは、我(われ)のみではその存在価値すらないのだ。それぞれの我(われ)を互いに知覚し合う他の者を持ってして、初めて我らは互いの存在に意味を為すことができるのであった。

簡単なことであったな。
その簡単なことがまったく分からなかった人生だった。

インインイン。

儂の手の中で。
刃が鳴っている。
刃が泣いている。

****************


また数日が経った。

外は今日も細かい雨が降っている。
その恵みに打たれて、
新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。

儂の目はもうほとんど見えない。

この数日、何も口に出来ていない。

それでも・・・。


わき立つ山の匂い。
遠くに渓流のせせらぎ。

儂の鼻と耳はまだ辛うじて使えている。


なによりも・・・。

儂の手が・・・。
まだこうして動いておるのだ。

シウリの削れる音。

仄かに香るお前の匂い。
長く乾燥した木が削れる感触。

基本手順。

手元の座椅子の木取りと荒削りは、もうほとんど完成している。何のミスもなく、あっという間に終わってしまった。それはそうだろう。なにせ50年以上の時をかけて、頭の中で何千回と繰り返してきた作業なのだから。

しかし、ここからが肝心だ。

いや、むしろここからなのだ。

こいつと儂の意識を重ね合わせていく、共同で産みの作業をしなくてはならない。だが、ここからは思う存分カンナを使える。それは心が湧き立つ作業だった。




『あしがいます。あしが銀さんの友です』
一つ削って善次郎を削ぐ。

『鬼の子め』
一つ削って師匠を削ぐ。

『お父さんは日本一』
一つ削って健一を削ぐ。

『なんということだ。

俺は幽霊を作ってしまった』
一つ削って己を削ぐ。

『身寄りは銀さんでしょうが』
一つ削って愛を削ぐ

しかしどうだ?


儂の心の中に未だ皆がおるのは何故なのだ?
居るどころではない。
未だこんなにも大きく皆が居る。

削ったふりして、
削いだふりして、
結局、儂は何も捨てきれなかったのだ。
それどころか・・・。

刃が鳴っている。
刃が鳴っている。

**********************


そして、儂はシウリと2人きりになった
世界に・・・立った2人でポツンと居る。

神木よ。

神居よ。

お前は彼の大地でどれだけ生きた?
・・・。

そうか。
これがお前の記憶か。

ここは?大風か。

辛かったろう。

ここは?寒波か。

苦しかったろう。

ここは?長い春だな。

楽しかったな。

この葉影で鳥は歌ったか?
この枝を栗鼠は走ったか?
この根股で熊が寝たのか?

ああ。ここは?

これがお前が倒れた原因だな。
悲しかったな。
くやしかったろう。

大丈夫だ。

儂が全部削り出してやる。
その想いを形にしてやる。

そして。
最後に残るものがあるはずだ。
儂の様にお前にもあるはずだ。

それを儂に見せてみろ。


どこだ?

その記憶は何処にある?
怖がるな。
儂にまかせておけ。

ああ、それとな。

一つ約束をしてくれ。
お前だけはどこにも行くな。
お前だけは儂を置いて行くな。
俺とお前の作品。
俺たちの子供ができたら一緒に行こう。

どうしたここをこんなに赤くして。

ああ、儂か。
儂の口から垂れてしまったか。
すまん。
今拭くからな。

刃が鳴っている。

刃が泣いている。

詩織よ。

我が愛よ。

儂は今、深海にいる。

蒼く昏い海底に沈んで行く。
儂はそこで一筋の光を探している。

シウリよ。

お前のどこか奥底にそれはある。
必ずあるのだ。

あとどれくらいだ?

どのくらいで見つけられる?

二日か・・一日で終わるか。


それともたった今か。

あとひと削りで見つけてしまえる気もするし、永遠に見つからない気もする。

しかしここからだ。


いずれにせよ、ここから、


儂の長い旅が始まるのだ。

*************************

数日が過ぎた。

何度も何度も鉋を落としかけた。
気を許すと、すぐに意識が飛んでしまうのだ。

その感覚が徐々に短くなって行く。

最後の仕上げに入っている。
笠木を削っている。
座った者の背があたる部分を削っている。

シウリが言う。
もっと、もっとだ。
俺はもっと奥に居る。

おい。
これ以上削るとペラペラになっちまうぞ?
大丈夫だ。
あんたが見事な木取りをしてくれたからな。
まだいけるはずだ。

なあ、昨日な、善次郎に手紙を出したよ。
謝ったのか?
謝ったよ。
それは良かったな。
あいつは結局三越の社長になったからな。
それがどうした?
立派なもんさ。
お前も立派だぞ。
そうかな?
そうさ。
俺を削れるのはお前しかいなかった。
そう言ってくれるか。
お前、ガキの頃俺の横で倒れただろう。
そんなこともあったな。
あの時もこのように俺と2人で話したな。
そうなのか?
そうさ。
お前は目を開けて俗世に戻りそれを忘れてしまっただけさ。
そうだったか。
儂はいつから我(われ)に取り憑かれていたのだろうなあ。
さあな、今となったらどうでもいい話だろう?
そうだな。

なあ、シウリよ。
なんだ?
善次郎も専修も新一新二も左膳のおっさんもな。
ああ。
師匠も、健一もな
ああ。
詩織もそして、シウリ、お前もな。
ああ。
みんながいてこその儂だったよ。
・・・・。
おい、どうした?
銀・・・よくここまで来れたな。
そうだな、儂も驚いているよ。

ああ、銀次郎。
なんだ?
もう少しだ。
もう少し?
もう少しでお前が俺に・・・届くぞ。

ハッと気づいた。笠木に突っ伏してまた意識を失っていた。目を開けたが、真っ暗だった。ここに来てボンヤリと見えていた目がついにその光を失ったのだ。いつの間にか刃鳴りも聞こえなくなっている。ただ轟々と音がなっている。耳も潰れたようだ。ああ。しかしすごいぞ。轟々と鳴る地獄の音の中に儂の心(しん)の音がハッキリと聞こえる。ドクンドクンと儂の心臓が鳴っている。生きているぞ。儂はまだ生きている。鼻も馬鹿になっているな。目と耳と鼻が無くても木工はできるのか。いや、できるのだ。儂は儂の心が止まるまでは削り続けるぞ。しかし、これはいかんな。口から出る血の量がすごい。胃ってのはやっかいだな。血が口から出てきちまうからな。目が見えないから分からないが、たぶんお前には血を引っ掛けてはいないはずだぞ。かけたら台無しだからな。儂の血なんかで汚したら、お前に申し訳ないからな。いや、儂にも申し訳ないから、あんなことは二度としないぞ。さあ、儂に残されたのはこの触覚と心臓だ。儂は心臓と手だけになってお前を削っている。ほれ、まだ行ける。まだ行けるぞ。

む?

その時だった。唯一残った手の触覚が、手の中の刃が、コツンと何かにぶつかった。固い変異に刃が引っかかった。慌てて左手でそこを手探る。再び失いかけた意識がその強烈な知覚を感じて体の中へと戻って来た。しかし、次に来た恐ろしい予感に再び意識を失いそうになる。

なんだ?
これは。
死に節(丸く腐った節の跡)ではないか。
しかもこれは掘ればまだ大きくなるぞ。
ちょっと待て。
なぜこんな所にこれほど大きな死に節があるのだ?
おかしいではないか。
俺はこんな笠木のど真ん中に抜け節を作ってしまったのか。
こんなもの掘り出したら。
作品としてはだめだ。
珠の傷となる。
一番の見せ所に黒く腐った穴など見せてはいけない。
削り出しの銀次郎としたことがどうした。
なぜこんな初歩的なことを見落とした?
もう命の時間が少ないというのに。
シウリ、お前の代わりなどないというのに。
絶望に命が吸い込まれそうになるのを必死に耐えた。
落ち着け。
落ち着くんだ。
ここの部位は、このシウリの生まれて間もない最深部だ。
それが笠木の木取りの定石だ。
生まれたときの小さな双葉。
それがやがて大きくなりそこから新たな枝が別れて行く。
その大本の2つ枝はここと、ここだ。
手で確認する。
あ・・・。
なぜここにもう一本ある?
なぜもう一本がここで死んでいる?

なぜ3本目があるのだ・・・?

そこで儂は・・・・。
ひゅうと息を飲んだ。

3本生り(みつなり)か。
お前は奇形だったか !!

どのような大樹でも事の始めは双葉から始まる。しかし時折、何万本の一本の割合で、奇形の芽が出ることがある。三つ葉だ。しかし人の奇形と同じく、三つ葉の樹は長生きが出来ない。若木に至る前にほとんど死滅する。健常ではない生命の生存力が低いのは、生き物であれば等しく同じことだ。

しかし・・・。
お前は凄まじい年月を生きたではないか。
なぜ・・・。
いや・・・。
まさか。

まさか、お前。

3本目を自分で殺したのか。
二本の枝で取り込み取り潰したのか。
その傷を抱え込み、癒し、そして尚、その異常な樹齢を生きたのか。

そうか。
そうであったか。

なんと・・。
なんと・・。
壮絶な話だ。

よくぞ、
その生命としての劣りを克服した。

シウリが深いため息をもらした。
よくここまで来たな、銀次郎。
ああ。そうさ。
これが俺だ。
俺の恥部だ。
そしてこれが
俺の誇りだよ。
銀次郎・・。

これが俺の全てだ。

そして礼を言う。
この通り礼をいうぞ、銀次郎。

ま、まて。
待て、シウリ。
礼を言うのは早いぞ。
ここまで笠木の周りを削ったのだ。
ここも削らなければならん。
そうしないとここだけ背にあたるではないか。
これでは完成しないのだ。

なら削ればいいさ。

いや、しかし・・・。
これ以上削ったら腐れた穴が出て来てしまう。
その腐れた穴を衆目に晒してしまうではないか。

晒せば良いではないか。

なんと・・・。

・・・・。
・・・・。
・・・・。
そうか。

そうだな。
そうだったな。
これがお前だからな。

そうさ。
そしてこの大穴をお前も持っている。
この椅子はお前でもあるのだ。
それを恥ずかしがるか?銀次郎よ。

これが儂か。
そうだな、なるほど。
まさしくその通りだ。

まあいい。
分かった。

しかし、儂も木工家の端くれだ。
削り出すか
出さないか
しばらく考えさせてくれ。

ああ、俺はもう充分だ。
あとはお前に任せることにしよう。
いくらでも考えるがいい。
第一、もう俺たちには時間などあってないようなものなのだから。

そうだな。

それではシウリよ。

・・・しばし待て。

*********************

儂は立ち上がり腕を組んだ。
体が暖かい何かに包まれた。

ああ、旭川だ。

これは故郷の小春日の温もりだ。
なつかしいなあ。

詩織はどこへ行った?

あいつは目を離すとすぐどこかに隠れてしまうからなあ。
あいつを見つけるのが俺の役割さ。

おーい。
おーい。
詩織ぃ、
どこぉ隠れた?
詩織ぃー。

**********************

朝がキラキラと始まった。
庵は優しい朝の光りに満ちていた。
床中に鉋屑と血反吐が散っていた。

石田春吉は戸口にもたれかかり、腕を組んで、もう一時間以上もジッとその情景を見つめていた。

大きな低座椅子が銀次郎の足下にその偉容を叫んでいた。大人が並んで2人は座れそうなほど大きな低座椅子だった。座る者の背を隠すほどの大きな笠木が静かな威厳を放出していた。周りの血が凄い。しかし、血はその椅子だけを避けているようだった。

石田春吉は先ほどからその椅子の産声を聞いている。その低座椅子が生まれたての赤子のように大きな声を出して元気に泣いているのを聞いていた。

戸口を向いて仁王立ちする銀次郎は、腕を組み顔半分から下をゾップリと真っ赤な血で染めて絶命していた。

目を開き、小首を傾げて。
恥ずかしいような。
誇らしいような。
ちょっと困ったような。

初めて我が子を見る父のような。

そんな顔をしていた。
その銀次郎の右半身に暖かい朝の光が差し掛かっている。

背後で車のブレーキが聞こえた。

朝倉善次郎が降りて来た。

善次郎は石田春吉を見ると、ぺこりと頭を下げた。

ゆっくりと銀次郎に歩み寄る。

「銀さん・・・」

善次郎は両手で自分の顔を被った。
そして銀次郎の足下にうずくまった。

「銀さん・・・」

善次郎の肩の震えが収まった頃、
石田春吉はその老人の肩を叩いた。

「爺さん・・・」

低座椅子の笠木を指差した。

「これは終わっているのかい?」

善次郎はその声にハッと顔を上げた。
低座椅子の笠木に目を落とす。
次に銀次郎の組んだ右手に目を遣る。
そして、やにわに周囲に目を走らせた。

壁の小棚に駆け寄った。

「ああ」

そこで善次郎は、また崩れて落ちた。
ああー
ああー
小さな老人が今度は大きな大きな声で哭き始めた。

「銀さん蹲踞(そんきょ)したなあ。礼をしたんだなあ。しっかり終(しま)ったんだなあ」

小棚には血のりの突いた黒柿の鉋が、刃だけはきれいに拭かれ、きちんと立てかけてあった。

「お疲れさま。銀さん、お疲れさま」

下を向いていた石田春吉が顔を上げた。

「そうか。終わっているか。そうだよな」

石田春吉が独り言のように呟いた。

・・・銀さんよ。しっかりと受け取ったぜ。

「この椅子、俺がもらって行くぜ」

そう声に出して呟きながら、春吉はもう一度その低座椅子を見下ろした。

低座椅子の背もたれ・・・笠木の部分にボッカリと大きく黒く腐れた穴が開いていた。石田春吉はその穴を見つめながら心の声で叫んだ。

『待ってろよ・・・武藤健一』

*********************

善次郎が泣き崩れるのを見ると儂まで悲しくなる。
泣くな善よ。
生きるも死ぬもたいして変わらぬぞ。
まあ、お前もすぐ分かるさ。
それより善、最後に頼みがある。
手紙にも書いたがな。
その若造を頼む。
お前がそいつの後ろ盾となるのだ。
兄弟子の最後の願いだ。
聞いてくれるな?

そして若造。
石田春吉。
礼を言うぞ。
お前のおかげで儂は儂の人生を終うことができた。
その椅子を頼むぞ。
そして健一を頼むぞ。
お前に儂の後始末をさせるのも申し訳ないのだが、まあ許せ、これも縁だ。

戸口に人影が揺れた。

詩織が立っていた。
詩織はいつも戸口で待っている。
俺は詩織の手を握った。
外の空気は久しぶりだ。
うーん・・と背伸びをした。

「待ったか?」

詩織はちょっとうつむいて照れたように笑った。

「ぜんぜん待ってませんよ」

「そうか。では行くか」

「どちらに行くのですか?」

「カレーだろう?」

「あ !! 」

「中村屋に行くのだろう?」

「やった !! 」

詩織がピョンと跳ねた。

「あ、でも・・」

「どうした」

「ちょっと健一が心配です」


『あの子、友達ができないの。
頑固なの。だからね、
誰よりもあの子には、
友達が必要なの』

********************

「ああ、健一なら大丈夫だ。あいつな・・・」

**********************


『一つ最後に聞きたい』

『なんだよ?』

『お前は健一のなんだ?』

『俺が?
 武藤健一の?
 何かって?』

*******************

「何だろうな、まあ、でも、俺は奴の・・・」

「友達なんだろうな」

*******************


「友達を見つけたらしいぞ」

「本当?良かったぁ」

「さて行くか」

「はい」

「あ、そうだ銀さん」

「なんだ?」

「ちゃんと日本一になれた?」



(完)



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