2015年6月17日水曜日

東京インテリアショップ物語 番外編 「畳の目」後編


若き天才、石田春吉率いるインテリアショップCOREの一代勃興史「東京インテリアショップ物語」のサブエピソード。後に春吉の右腕となる悪魔の会計士こと武田仁成の若き苦悩

前回まで

中学生で父親を失くし、数々の不幸の反動から人の心を捨て、若くして金融の世界を極めた仁成。東大を卒業後、東京三菱銀行にキャリア入社。最初の担当である潰れかけの家具屋「麻布家具」の一人娘涼子に過去の自分を重ねた仁成はその再建計画に乗り出すが。



sub-episode2
「畳の目」
後編


3章


僕は・・・。
灰色の廊下にいた。
目の前には玄関ドア。
その向こう。
外には、
きっとあの人が立っている。
僕を呼んでいる。
後ろは振り向かない。
なぜって。
あの部屋があるからだ。
中学のころからつい最近まで、
僕を閉じ込めていた
明かりの入らない
あの畳の部屋があるからだ。

壇上で武藤健一が話している。湯島。東京家具連盟会館の3階。席は30席ほど。講演を聞く人たちは東京都下の家具屋オーナーたちだ。

武藤健一。
大柄な体躯を揺すりながら静かな口調で話している。低くよく通る声。眠そうな目。太い首に太いネクタイ。パンパンに膨れ上がったグレースーツの胸。その上の誠実な表情。会社設立からたった七年で10億の壁を突破した男。

僕は一言も聞き漏らすまいとノートに彼の言葉すべてを書き起こしている。その手が止まった。横の涼子さんも食い入るように聞いている。

「もう一度言います。傾向的に言えば、メーカーから仕入れている家具屋が、今苦しんでいるのです」

販売店がメーカーからモノを仕入れないで、何を売れというのだ?

僕は心の中で混乱した。

壇上の大男は、僕のその心の問いを見透かしたように答えた。

「販売店が自ら作るのです。今、全国の家具販売店が潰れかけている理由、それは、そもそも、仕入先である家具メーカー自体が、出口の見えないトンネルにいるからに他ならない。昨今の価値観の多様化の中で、特に小規模メーカーの彼らは、もはや何を作っていいのか、わからなくなってしまったのです。しかし、逆に言えばこれはチャンスです。そのようなメーカーと手を組み、OEMで自社オリジナルを作ってもらうのです。小さいメーカーと小さい販売店の同等な立場における二人三脚。それが・・・」

武藤健一が語気を強めてデスクをトンッと叩いた。

「ファブレスです」

なるほど、ファブレスか。ちょっと前から支店で良く聞くキーワードだ。マーケットの嗜好は日々そこに相対している販売店が一番良く知っている。そこから始まるデザイン、設計、価格設定など、組み立て製作以外の全てのパートを販売店主導で行い、製作のみをメーカーに任せる。販売店は自社商品オリジナルとして出来上がったその家具を自らが販売するのだ。

僕は手帳にペンを走らせた。

Territory、武藤健一、ファブレス。

そうか。
神宮前のTerritory、外苑前のAREA、南青山のTime & Style。この3ブランドはどことなく似ていると僕が直感した理由が分かった。このブランドたちは皆ファブレス形態だったのだ。工場を持たないメーカー。次代のメーカー形態。ここ数ヶ月で調べ尽くした記憶のノートを開く。そのカテゴリーで言えば、この形態は30年ほど前から存在していたはずだ。吉祥寺のSERVE、代官山のZERO-FIRST DESIGN、南青山の旧IDEE・・・枚挙にいとまがない。アパレルで言うとどこだ?GAPは?SPAだな。ファブレスならZARA、H&Mか。

ZARA?H&M?
そこに違和感を感じた。

場は質問のコーナーに移っていた。
一通り静まった後、僕は手を上げた。

「はい、えーとあなたは確か麻布家具の・・・あ、忘れてた。皆さんにご紹介致します。今回初参加、麻布家具の武市涼子社長です」

司会進行役の丸彦家具の小暮社長が気を使ってくれた。涼子さんが席を立って周囲にお辞儀をする。まばらな拍手が起きた。

「えー。で、横のひょろっとしたその人が・・・東京三菱銀行の武田仁成さんです・・・ね、あってます?はい。では、ご質問をどうぞ」

全員の視線が僕に集まった。武藤健一がニコニコとした笑顔を僕に向けた。

「小暮社長、ご紹介ありがとうございます。そして武藤社長、今日は有意義なご講演をありがとうございました。で、えー、質問ですが・・・。武藤社長の仰ったファブレスはアパレルの前例を見ると大量生産大量消費ベースでこそ威力を発揮する形態であると記憶しております。10億企業の規模では、セレクト商品を効果的に用いないと、ちょっと危険なのではないでしょうか。過去、U.アローズは一時そのバランスを誤って、大きく業績を落としたと聞きます。その点をお伺いさせてください」

場の空気がシンとした。
突っ込み過ぎたか?
僕は壇上の武藤健一に目を戻した。

武藤健一は眠そうな目をさらに細めて僕を凝視している。
やがて、口を開いた。

「あなた。よく勉強されていますね。当社の売上高まで調べてこの場にいらっしゃるとは。ふむ。ではご質問にお答えします・・・」

その後の懇親会。
武藤健一は僕と涼子さんの隣に来るとニコニコとしながら言った。

「麻布家具もこんな優秀な銀行マンがついていると安心ですね」

涼子さんがあわててメモと手帳を取り出した。間近で見ると余計この男の存在感を感じた。その頼もしさに僕はその後もいろいろと相談を持ちかけた。

「なるほど、確かにあなたの言う通りそれは戦略的に素晴らしい立地です。麻布家具ですか。ぜひがんばって下さい」

太くて大きくて分厚い手を指しだしてきた。僕は夢中でその右手を握った。

「ありがとうございます。ぜひ今後ともご指導ください」

翌日。
僕と涼子さんは麻布家具の入り口のガラスに求人情報のチラシを貼った。「ネットの募集もいいですけどね、お店の求人はやっぱり店舗に訪れた人にアピールしたい。それで来てくれた人は結局長続きしますしね」と武藤健一に教えられたからだ。結果はてきめんだった。早速一人の女性が面接に訪れた。大統領がその履歴書を見て唸った。朝倉舞。26歳。大手アパレルのショップ店長。社長賞3回。

「なんでこんな優秀な美人がウチに?」
「近所に住んでいてインテリアに興味があるそうです。大手より小さい会社の方がより全般を学べるって言ってましたね」

と僕は言った。涼子さんも嬉しそうだった。そんなもんかな・・・大統領は首を傾げた。

大統領の心配をよそに、朝倉舞は爆発的に家具を売り始めた。

「接客は得意なんです。お洋服も家具もコツはいっしょみたいで良かったです」

みるみる月の売上げが上がって行く。彼女は高価な家具しか売らなかった。インポートの高級家具がどんどん売れて行った。客単価が通常の4倍に膨れ上がった。粗利が10ポイントアップした。僕は彼女の接客を感嘆して見つめた。パーカーにスキニーパンツ。髪は後ろに一本縛り。素朴な格好をしていても彼女には、どこか匂い立つ気品があった。販売をするために生まれてきたような人だ。思わぬ援軍に涼子さんも張り切った。僕の作った販管費改造計画の庶務。ファブレス系高級家具店を目指すためのオリジナル家具のデザインの作成。まず彼女はTVボードの設計図面を完成させた。僕と朝倉舞は交互にその図面を回し見した。「オリジナルですね、うんかっこいい。売れますよこれは!!」朝倉舞が手を叩いて喜んだ。「もっと作って下さい。振り込みとか、雑多な庶務全般は私がやりますから、もっともっとステキなオリジナルを作って下さい!!」僕と涼子さんは目を見合わせて頷いた。行ける。この会社はもっと伸びるぞ。

そう。
すべてが夢のように順調だった。
半年が立ち、会社のV字回復を示す半期諸表を確認した。

メドが立ったな。

僕はようやく肩から力を抜いた。

12月。
支店会議から自分の席に戻る。携帯に涼子さんからの着信が4件も入っていた。電話をしようとして、ふとデスクに目を落とす。

その紙は何の前触れもなく僕のデスクの上に置かれていた。

「異動命令書?」

なんだこれは・・・。
神奈川?本牧に異動だと?

本牧と言えば同期の仁科達夫の所だ。
周りを見回した。高田先輩は外回りに出ているようだった。

心臓が嫌な音で大きな鼓動を立て始めた。

震える手。
携帯で仁科を呼び出した。

「ああ。俺も今朝聞いた。今その前後関係を調べていたところだ」

仁科の声も動揺していた。いつも以上に早口になっていた。

「こんな時期の人事なんて聞いたこともないぞ」

仁科が沈黙した。

「なんだ?仁科、お前なんか知ってるのか?」
「武田・・・落ち着け」

落ち着け?落ち着けだと?僕はキャリアだったんじゃないのか?こんな動きは過去に聞いたことがない。

「俺はこれは上層部の派閥争いだと思う」

東大と慶應。
確かにそれはもともと昔からあるウチの暗部の歴史だ。いや、今ではマスコミも一般人も誰もが知っている。しかしそれは伝説としてだ。信憑性としては都市伝説並みの話だった。

まさか・・。

「仁科・・お前確か・・」
「ああ慶應だ。今回の人事な、俺とお前の入れ替えなんだ」


その5分後。
僕は営業自転車で外苑西通りを走っていた。仁科達夫の声を頭の中で反芻する。

いいか、仁成、よく聞けよ。思うにウチの会社はお前がキャリアにふさわしいかどうかテストしていたんだと思う。お前、社員研修の時言ってたろ、中学の時の話。そう、お前の親父の貸し剥がしの話だ。その人格影響が今も残ってるか試されたんだよ。麻布の家具屋がどうとか言っていたな。お前その初担当に入れこんでただろ?たぶん、いや・・・絶対それだ。お前はキャリア失格と見なされたんだよ。俺?知らねーよ。俺にそんな手引きができるわけないだろう?それはお門違いだぜ?俺もさっき知ったんだ。自分でよく考えろ。筋で言えば大抵こういうのは直属の先輩がガイド役だぜ?

あとな・・・さっきから調べていてもう一つ気になることがある。

青山墓地の狭い道で車にぶつかりそうになった。派手なクラクションを鳴らされた。雨が降ってきた。向かってくる雨粒に何度も目をこすった。涼子さん・・・くそ。狂ったようなスピードで自転車を走らせた。

お前、武藤健一という男を知っているか?そいつは島津財閥の血筋だ。ウチの会社と島津の関係は知ってるな?そうだ。島津はうちの大株主だ。最近ウチの上層部と武藤健一が一緒にいる所をこっちの支店長が見ている。ああ。丸の内の本社でだ。どういう意味だ、だと?馬鹿。お前が入れこんでるその家具屋の立地はウチの会社主導の大規模再開発区域のど真ん中じゃないか。管轄はウチの不動産部門だが、基本的に裏では表参道支店が主体なんだろ?え?・・・知らない?一週間前の決定事項だぞ。俺はこの話を支店長から聞いた。なぜお前が知らないんだ。本牧の俺が知っていて地域担当のお前がなぜ知らない?ウチの上層部と武藤健一は何を狙っているんだ?

外苑西の交差点を渡り、ホブソンの脇の小道に入る。森ビルの虎ノ門ヒルズの対抗措置?麻布ニュータワー計画?知らない。聞いていない。

武藤健一は何を狙っているだと?そんなのは明白だ。僕は漏れ出しそうな嗚咽をようやく飲み込んだ。それでもウッウッと声が漏れる。分かってる。再開発予定地域のど真ん中にある個人ビルの買い取り。後に転売する目的の間接的な地上げだ。当然、上場企業はそんな危ない橋は渡れない。奴はワンオーナーの中小企業の立場を利用してこの大事業、この途方もなく甘い果実に吸い付く気だ。島津系だと?バックグラウンドは?ウチの誰だ?誰とつながってる?絵を描いているのは誰だ?慶應の誰だ?くそっ。

麻布家具のドアを開いた。

涼子さんと大統領が奥のテーブルに座っていた。

涼子さんがずぶぬれの僕をちらりと見て、また下を向いた。

テーブルの上。一括返済書。財産・抵当差し押え書。そして辞表。

辞表?
朝倉舞か?
なぜだ?

「たった一日で何から何まで取られちゃったよ」

大統領が小さくか細い声で言った。


一括返済の根拠。
一時間前の高田先輩からの電話。いやあ、ウチの仁成がお世話になっているようだけど、こう返済が遅れちゃったら僕もどうしようもないというか・・ねえ。涼子さんが慌てて調べた経理帳簿。4ヶ月振込みの形跡がなかった。ドクンと僕の心臓が跳ね上がった。『振り込みとか庶務全般は私がやりますから、もっともっとステキなオリジナルを作って下さい!!』なぜだ?なぜ朝倉舞は4ヶ月も支払いを怠った?そしてその事実がなぜ担当の僕の耳に入らなかった? …いずれにせよ、このビルは無条件に競売にかけられる。出来レースの競売だ。このビルを落とすのはもちろん武藤健一。奴だ。この半年、いくら業績が良かったとはいえ、麻布家具に一括返済の目処などあるはずがない。僕だ。僕が他の銀行をウチにまとめ直した。僕がこの荒事を可能にしたようなものだ。僕はデスクの上の書類を掴んだ。せめて、せめて、このビルの販売額で充当を・・・。あせって書類をめくる。これだっ。書類の一枚を抜き取る。

「え?」

整然と並ぶ数字に愕然とした。手からその紙がひらりと落ちた。なんだこの評価額は。僕の認識している査定額の70%にも満たないじゃないか。査定は誰が?ウチのグループ?僕はすべての書類に目を通した。気持ちが悪いほどに合法的な手段だった。これじゃ裁判をしようにも、いや・・・しかし。「裁判です。それしか方法が・・・」大統領が首を振った。「ウチにはそんな金はないよ」「そんな金、家具を売って少しづつでも・・・」大統領がまた首を振った。「どうやって売る?この家具を誰がどうやって売るんだい?」あ・・・。高級家具に一変した店内。それを唯一売りこなせる、頼りの朝倉舞はもういない。そ、そうだ、そうだよ、彼女は?「舞ちゃんはどうして辞めたんです?振込忘れてたから?今からでももう一度説得して・・・いや、彼女に頼らなくても、まだ笠間建設の売上げもあるし、なんとか・・・」最近オリジナルが売れて来て圧縮されたとはいえ、麻布家具の5割の売上げシェア、笠間建設の売り上げがある。笠間建設がいればここはそうそう潰れないんだ。僕の言葉に涼子さんがテーブルに突っ伏して子供のように泣き始めた。僕の体がギュウッと縮んだ。なんだ?僕はなにかおかしなことを言ったか?大統領がポツリポツリ話し始めた。突然の電話。笠間建設の息子からの電話。御社とのお付き合いを終わらせたいと一方的にまくしたてた。詰め寄る大統領。とうとう息子の本音が飛び出した。いやあ、お宅の朝倉舞ちゃんを気に入っちゃってねぇ。あ、僕の嫁にどうかってね。聞いたら悪い感じじゃなさそうだったんだよ。でね、彼女今度、お宅辞めてテリトリーに再就職するっていうじゃない?あそこはクオリティ高いし、社長の武藤健一さんも親父を説得してくれちゃってさ。親父ももうその気なわけ。まあそういうわけだから」

再就職だと?
テリトリーに?
再・・・。

『なるほど、確かにあなたの言う通りそれは戦略的に素晴らしい立地です。ぜひがんばって下さい』

「あああ・・・」

すべてがつながった。
全部の線が結束する場所。
複数の伏線が示す場所。

低くよく通る声。
眠そうな目。
太い首に太いネクタイ。
パンパンに膨れ上がったグレースーツの胸。
その上の誠実な表情。

「武藤健一・・・」

僕はあの時、熱に浮かされたように僕の戦略すべてを話してしまった。武藤健一は再開発計画は知っていても、麻布家具に関しても、麻布家具の自社ビルのことも、何も知らなかったはずだ。あの時、あの夜、奴の脳で、その二つがつながった。そして翌日、早速、朝倉舞をここに送り込んできた。

その媒介を演じたのは、
またもや…。
僕だった。

差し出した手。
太くて大きくて分厚いあの手。僕はあの時、あの巨大な手に、邪悪な蜘蛛の巣に、見事に捕まったのだ。

なんという人間だ。
なんという悪辣だ。

僕は崩壊寸前の心で涼子さんを見上げた。あの優しい目で救って欲しかった。しかし、その時僕は見た。

僕を見下ろす彼女の目の中の憎悪を。

形容しがたい程の恐ろしい光りを。

「うわあ・・・」

僕は床に尻餅をついた。
彼女の憎悪が追ってきた。
目を離してくれなかった。
そして、

「うああああうううああー」

ついに口の聞けない涼子さんが口をきいた。

「ううああああああっっっっっあっあー」

僕は尻餅をついたまま頭をかばうようにして後退った。そして、やにわに立ち上がり、その場を逃げ出した。

そうして、僕はすべてを失った。


4章


無精髭と風呂に入っていない体。
ベトついた右手には刃渡り10cmのナイフ。

あの日から3日が経った。

会社を休み、引きこもるマンションの自室で、見知らぬ番号から着信を受けた。通話ボタンを押し、黙っていると低い声が言った。

「武藤だ。聞いているか、武田仁成?一度しか言わないからよく聞け。お前はウチに来い。いいか?お前は見所がある。俺が仕込んでやる。明日のam7:00にウチの店に来い。いいな」

通話を切った。意味が分からなかった。なぜ僕がお前の所に行くんだ?殺しに行くならわかるけどな。殺す?俺が武藤を?まあそれもいいな。俺はこういうものを持ってるしな。あいつの顔にこいつを指してやったらどんなに気持ちがいいだろうな。そうぶつぶつ言いながら、一睡もせずに、僕はこうして朝を待っている。やがて日がのぼり、僕は腰を上げた。外に出た。雨が降っていた。田園都市線は今日も人で溢れていた。人々は僕を避けて通った。僕は表参道をふらふらと歩いた。そして目的地、テリトリーの直営店に到着した。

am6:40。

向こうの道から大男が歩いてきた。
一人だった。


僕は灰色の廊下にいた。
玄関のドアにはいつの間にか
外からカギがかかっていた。
その向こう。
青空の下で僕を待っていたはずの
あの人はもういない。
僕は後ろを振り向いた。
例の扉があった。
中学の時からずっとこもっていた、
明かりのない畳の部屋だ。
僕は長い間そこで、
畳の目を数えて過ごした。
もうあそこには戻りたくなかった。
でも。
やっぱり。
僕の居場所は最初から・・・。
ここだったのかもしれないな。







遠く道の向こうから
大男が姿を現した。
僕はかばんの中のアレを握った。
テリトリー前の植え込みに隠れて
その時を待った。






ギギギギィィ。
無明の部屋の扉が
独りでに開いた。
その隙間から、
部屋の畳が見えた。
横たわる親父の足が見えた。
窓の外のアジサイの碧が…
見えた。
僕はゆっくりとその部屋に
戻ろうとした。




かばんからアレを取り出した。
奴を懲らしめる為のあれだ。



扉のノブに手をかけた。
とうさん・・・・。
僕はだめだったよ。
けっこうがんばったんだけどな。




その時。
後ろから襟首を掴まれた。
僕は、ものすごい強い力で後ろに投げ飛ばされた。右手のナイフを握る手を蹴飛ばされた。

「てめえっっ!!」

引き起こされた。頭突きをされた。プキッと僕の鼻が鳴った。そのまま裏道に引きずり込まれた。

くそっ僕は奴を!
武藤を・・・!

もがいた。
離せっ
くそっ!

そいつが僕のナイフを拾った。そしてそれを遠くの植え込みに投げた。小さい男だった。小さいが全身から電気のようなオーラを放っている。そいつが僕に近づいてくる。やにわに僕の両耳を掴んだ。

ゴンッ。

額に額を打ち付けられた。そして言った。

「武田仁成ぇ、遅くなってワリイな」

鼻と鼻がふれあう距離でそいつが言った。歯を食いしばったそいつの口から獣じみた呼気が漏れた。

「見えるか?仁成?俺が見えるか?」

デカい口がニイイイイっと笑いの形になった。

「その穴ぐらに戻っちゃいけねー。もう二度とそこには戻るな」
「石田・・・・はるきち?」

春吉がようやく僕の両耳を離した。

「俺とお前は同類だ。その穴ぐらは俺もよーく知ってる。武田仁成、お前は俺と来い!! わかったか?わかったな!?」

その時、僕の中で何かが弾けた。畳の部屋の扉がバンッと音を立てて閉まった。親父の足が、畳が、アジサイがかき消えた。僕は、いや・・僕の無意識が勝手に・・。

頷いた。

そして、その意味に意識が後から追いついた。再び僕は大きく頷いた。

「はるきちっ」

僕は絶叫を上げた。いやだ。僕はもうあの部屋に戻りたくない。

「僕を・・いや俺を・・・」

ぜったい嫌なんだ。畳みの目を数えて過ごすのは。もう二度とごめんだ。

「頼む」

俺をあの玄関の外へ連れてってくれ。

「俺を・・・頼む」

春吉が太い呼気を吐いた。
「ハッ」
そして俺の目を真正面から見て言った。

「まかしとけ!!」


あきらめていた玄関ドアが、
開いた。
いや、無理矢理ぶち破られた。
ドアの向こうには、
青空はなかった。
冷えびえとした荒涼が、
ただ永遠と、
広がっているだけだった。
しかしそこには・・・。
春吉というチビが立っていた。


また襟首を掴まれた。
再び表通りに引きずり出された。
春吉に肩を組まれた。
春吉が道の向こうの大男にデカい声をかけた。

「武藤!!」

武藤健一の足がピタリと止まった。

「仁成は俺がもらったぜ!!」

俺の肩に乗る春吉の太い腕の重み。

「俺はお前のやり方は気に入らねえ」

なんて心地のいい重みなんだろう。

「首を洗って待っていやがれっ」




エピローグ

トンボが飛んでいる。
腹が赤い。
秋茜か。
こんな東京のど真ん中でもトンボが飛ぶんだな。
しかし俺の胸にそれ以上の感慨はない。

「アキラさん辞めたんですか?」
「ああ」
「そうですか」
「お前の計算に支障が出るか?」
「いえ。別に」

向こうから女が歩いてきた。

「お待たせしました石田社長」

横の俺を見てその女がフッと笑った。

「あら、久しぶり。何か雰囲気変わったわね」

朝倉舞。

しかし俺の心はもう動かない。
俺の心は冷えびえとした荒涼にある。
あの頃の俺はもういない。
俺の昏い目に朝倉舞が少したじろいだように見えた。

「で?どうする?うちに来るか?」
春吉が言った。
「お受けします」
そう答えて、
朝倉舞は艶然と笑った。





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