2015年5月1日金曜日

真の芸術、デザインとの境目


芸術は醜いものを生み出すが、しばしばそれは時とともに美しくなる。一方、流行は美しいものを生み出すが、それは常に時とともに醜くなる。
--   Jean Cocteau



☞ 芸術について語る時、僕は常に慎重になる。ただ言えることは一つだけである。それはつまり「表現者」が作った「表現物」と「それを知覚する者」が精神的、肉体的に相互作用すること、という基本部分のみである。

ここにおける表現者、表現物、知覚するものというのは人でなくてもよい。例えば地球は神が作った芸術だと我々は知っている。などということも当てはまるのだ。

その意味では、およそ人の作った芸術など非常に狭義の世界における一事象であり、各々が唱える芸術論は所詮各々の論であり、それぞれに正しいのだ。それなら殊更に主義を振り回すのは少し滑稽ではないか。・・・自由でいいのだ。

そんなことより、僕としては、芸術が生まれる瞬間にこそこだわりたい。芸術とは知覚するものがあって初めて芸術足り得る。発見前のツタンカーメンの埋葬美術がハワードカーターによって発掘されたその瞬間、紀元前の祭器は時を越え、ポタリと我々の前に芸術として生まれたのだ。

☞ さて。今日も僕は家具をデザインしているのだが、モノを生み出すにあたって根強く考えることが二つある。

まず一つ目が商業デザインと芸術の境目だ。異論もあるだろうが、ひとまず簡単に言えば、「商業デザイン」とは知覚するものを前もって想像(マーケティング)して表現者が作る表現物であり、「芸術」とは知覚するものを意図しないで表現者が作る表現物ということになるのであろう。

しかしこの問題については僕の中でほぼ答えが出ている。例えば、よく知り合いに、「あなたのデザインは普通じゃないよね」と言われる。無駄に大きかったり、変な所からツノが飛び出したりしているからなのであろうが(結局そこを好んで使ってくれている人が多いのだが)、これは知覚者をまったく無視した僕個人の創意からくる造形なので、個人的「芸術」にあたる部分なのだろう。

また、「あなたのデザインは古典がベースだよね」と言われることも多い。シェーカーやゴシック、バロック、F.L.ライトを連想させるパッケージは過去の教典から引っ張り出してきたものであり、これは人が流行を問わず惹かれるものとして、半ば意識的に引用している。ビートルズの原点が賛美歌やプレスリーだったり、プレスリーの原点がブルースコードだったり、オアシスの原点がビートルズだったりするのと変わらない。アンセム(古典教典)主義を用いるということはマーケティングに他ならないのだ。

つまり、「商業デザイン」か「芸術」か、という二つの対立は、それらの配分はどうあれ、僕の中で同居・融合という結論として、ある程度解決されて終了しているのである。

二つ目は真の芸術やデザインとは「幸福」や「不幸」、つまり人の極端な感情の最たる所(ピーク)から生まれるという事実である。言うまでもないことだが、世界の芸術とはほぼこのどちらかから生まれている。極貧の中から生まれた「ゴッホ」「ゴーギャン」の作品とメディチ家に飽食を約束された「ダ・ヴィンチ」「ミケランジェロ」の作品など、または戦時下に生まれた数々の音楽・美術であり、パックスロマーナの元に享楽的なラテンの血を介して開花したローマ文化がそれにあたる。

喜怒哀楽の極端なところで芸術が開花するのなら、ぼんやり生かされている不幸でも幸福でもない我々現代日本人はたいしたものは生めないということになるのか?それを考えると少し薄ら寒い気持ちになる。

☞ 初述のジャン・コクトーの言った「醜いもの」とは誰かの個人感情(喜怒哀楽)のピークであり、それが時を経て美しくなるのは、時間という俯瞰がもたらす一個の人物への「人間賛美」である。一方、流行・・マーケット=集団感情の平均値は喜怒哀楽すら平均値化されるので、時の重みに負けて突出できず醜くなるという考察となる。

僕は1000年後も使い続けらている家具を生み出したい。それ故、こんなことをグツグツと毎日考えている。

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