2014年8月5日火曜日

真夏の50歩



遠い昔。

ある真夏の午後。
なんの拍子だったかな。
鎌倉長谷から稲村ケ崎へ歩いたことがあった。

高校生の足にはあっという間の距離だ。
隣の女の子はずっと鼻歌を歌っている。

彼女「もうすぐ、海に出るから」
僕「さっきからずっとそう言ってんじゃん」
彼女「もうすぐ、もうすぐ」

その子が江の電のレールの上を歩き始める。

僕「危ないって」
彼女「だいじょぶ、だいじょぶ」

歩きながら、僕は自分の足をずっと見ていた。
砂と土にまみれたボロボロのナイキ。

彼女「ねぇ、ねぇったら!」

足下の視線を、先行く彼女に戻した。
逆光のシルエット。
レールの向こうを指差す細い腕。
その向こうに青い青い海が見えた。

僕「おお」
彼女「ね?」

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青山、西麻布、六本木、広尾。
自転車に乗って、あちこちを走り回る。
カタログの撮影場所の下調べだ。

色気のある場所というのはなかなか存在しない。
青山墓地、六本木トンネル・・。
いやいや、これじゃ心霊スポット巡りだ。

自販機でスポーツドリンクを買った。
有栖川のベンチで一休み。
あんまりいい場所ないな。

足下、ブーツの先っぽを見つめた。
砂も土もついていなかった。
当たり前だ。

ここは東京なんだから。

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僕「僕らが初めて作るカタログなんです」

銀行マン「はぁ」

僕「で、テーマなんですけど」

銀行マン「テーマ?テーマなんてあるんすね?」

僕「ファウストで行きます」

銀行マン「・・・・は?」

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悪魔「人間なんてくだらん」
神様「そうでもないぞ」
悪魔「じゃあ賭けをするかい?」
神様「賭け?」
悪魔「あのファウストという人間で」

ファウストがある言葉を言ったら
堕落とみなし、悪魔の勝ち。
言わなければ神様の勝ち。

神様「いいとも」

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彼女をふと見る。
目に涙がいっぱい溜まっていた。

僕が気づいたことに気づいて、
彼女が照れ笑いをする。

その途端、ボロボロと涙がこぼれた。

「何で泣いてんの?」

聞くと彼女はヘヘッと笑った。

「海まであと何歩?」

目測した。
「50歩くらい・・かな」

風が吹いた。

「そしたら終わっちゃうなって思って」

海からの熱い風が彼女の前髪を揺らした。

「また来ればいいじゃん」
そう言うと、
彼女はひどく寂しい顔をした。

「そうじゃなくて今が・・」
「?」
「止まればいいのに」

「毎年来ようよ」
僕はそんなことしか言えなかった。

(たぶん困っている僕を気づかって)
彼女は急に笑顔を取り戻した。
「そう言う意味じゃないし、しかも毎年って、ここ地元だし、いつでも来れるし」

そう言うと、いきなり走り出した。
しょうがないから追いかけた。
あっという間に、

50歩の距離がゼロになった。

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「家具のカタログのテーマがファウスト?」
その銀行マンはずっとブツブツ言っていた。
「なぜだ?」

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休憩終了。
さあ。
自転車に乗って、次の撮影ポイントへ。

頭上で木立の緑がざわざわ音を立てている。

六本木ヒルズ。
銀色の塔が光をギラギラと反射させている。

ねぇ。
僕はこんなところで生きているよ。
ペダルを踏んだ。

また風が吹いた。

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[ファウストのラストシーン]

「その瞬間が来た時、私はその時そのものに対して
こう叫ぶであろう。

「止まれ!! お前(時)は本当に美しい」

To that moment [that is, when he sees free men on free soil]
i might say.

「STAY!!  thou art so beautiful.」

私の地上の生活の痕跡は、
幾代「過ぎ去って」も滅びないだろう。
そういう無上の幸福を想像して、
今、私はこの最高の刹那を味わうのだ。

(ファウストうしろざまに倒れる。
死霊たち、彼を抱きとめ、
その身体を地面に横たえる)

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それを見たメフィスト(悪魔)は言った。

「ついにその言葉を言ったな。
神よ私の勝ちだ。

しかし、過ぎ去っただと?
まったく間抜けた言葉だ。

「過ぎ去った」と
「何もない」は
全く同じではないか。

それなのにあたかもそこに何かがあるかのように、
おまえらはいつも堂々巡りをしているのだ。」

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・・・違うよね。

「過ぎ去った」と
「何もなかった」は同じではない。

断じて同じではいけない。

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そう。
確かに、あの時の50歩のように、
過ぎ去った「時」は二度と戻らない。

そんなのはよく分かってる。

でも僕らもファウストのように、
最高の「痕跡」を、
美しい「刹那」を、
しっかりと刻みつけたいんだ。

「過ぎ去った」時間は「無」ではない。
その証明として、
このカタログを「最高の刹那」にしたいのさ。

だからテーマを「ファウスト」にしたんだよ。