ある真夏の午後。
なんの拍子だったかな。
鎌倉長谷から稲村ケ崎へ歩いたことがあった。
高校生の足にはあっという間の距離だ。
隣の女の子はずっと鼻歌を歌っている。
彼女「もうすぐ、海に出るから」
僕「さっきからずっとそう言ってんじゃん」
彼女「もうすぐ、もうすぐ」
その子が江の電のレールの上を歩き始める。
僕「危ないって」
彼女「だいじょぶ、だいじょぶ」
歩きながら、僕は自分の足をずっと見ていた。
砂と土にまみれたボロボロのナイキ。
彼女「ねぇ、ねぇったら!」
足下の視線を、先行く彼女に戻した。
逆光のシルエット。
レールの向こうを指差す細い腕。
その向こうに青い青い海が見えた。
僕「おお」
彼女「ね?」
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青山、西麻布、六本木、広尾。
自転車に乗って、あちこちを走り回る。
カタログの撮影場所の下調べだ。
色気のある場所というのはなかなか存在しない。
青山墓地、六本木トンネル・・。
いやいや、これじゃ心霊スポット巡りだ。
自販機でスポーツドリンクを買った。
有栖川のベンチで一休み。
あんまりいい場所ないな。
足下、ブーツの先っぽを見つめた。
砂も土もついていなかった。
当たり前だ。
ここは東京なんだから。
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僕「僕らが初めて作るカタログなんです」
銀行マン「はぁ」
僕「で、テーマなんですけど」
銀行マン「テーマ?テーマなんてあるんすね?」
僕「ファウストで行きます」
銀行マン「・・・・は?」
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悪魔「人間なんてくだらん」
神様「そうでもないぞ」
悪魔「じゃあ賭けをするかい?」
神様「賭け?」
悪魔「あのファウストという人間で」
ファウストがある言葉を言ったら
堕落とみなし、悪魔の勝ち。
言わなければ神様の勝ち。
神様「いいとも」
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彼女をふと見る。
目に涙がいっぱい溜まっていた。
僕が気づいたことに気づいて、
彼女が照れ笑いをする。
その途端、ボロボロと涙がこぼれた。
「何で泣いてんの?」
聞くと彼女はヘヘッと笑った。
「海まであと何歩?」
目測した。
「50歩くらい・・かな」
風が吹いた。
「そしたら終わっちゃうなって思って」
海からの熱い風が彼女の前髪を揺らした。
「また来ればいいじゃん」
そう言うと、
彼女はひどく寂しい顔をした。
「そうじゃなくて今が・・」
「?」
「止まればいいのに」
「毎年来ようよ」
僕はそんなことしか言えなかった。
(たぶん困っている僕を気づかって)
彼女は急に笑顔を取り戻した。
「そう言う意味じゃないし、しかも毎年って、ここ地元だし、いつでも来れるし」
そう言うと、いきなり走り出した。
しょうがないから追いかけた。
あっという間に、
50歩の距離がゼロになった。
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「家具のカタログのテーマがファウスト?」
その銀行マンはずっとブツブツ言っていた。
「なぜだ?」
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休憩終了。
さあ。
自転車に乗って、次の撮影ポイントへ。
頭上で木立の緑がざわざわ音を立てている。
六本木ヒルズ。
銀色の塔が光をギラギラと反射させている。
ねぇ。
僕はこんなところで生きているよ。
ペダルを踏んだ。
また風が吹いた。
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[ファウストのラストシーン]
「その瞬間が来た時、私はその時そのものに対して
こう叫ぶであろう。
「止まれ!! お前(時)は本当に美しい」
To that moment [that is, when he sees free men on free soil]
i might say.
「STAY!! thou art so beautiful.」
私の地上の生活の痕跡は、
幾代「過ぎ去って」も滅びないだろう。
そういう無上の幸福を想像して、
今、私はこの最高の刹那を味わうのだ。
(ファウストうしろざまに倒れる。
死霊たち、彼を抱きとめ、
その身体を地面に横たえる)
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それを見たメフィスト(悪魔)は言った。
「ついにその言葉を言ったな。
神よ私の勝ちだ。
しかし、過ぎ去っただと?
まったく間抜けた言葉だ。
「過ぎ去った」と
「何もない」は
全く同じではないか。
それなのにあたかもそこに何かがあるかのように、
おまえらはいつも堂々巡りをしているのだ。」
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・・・違うよね。
「過ぎ去った」と
「何もなかった」は同じではない。
断じて同じではいけない。
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そう。
確かに、あの時の50歩のように、
過ぎ去った「時」は二度と戻らない。
そんなのはよく分かってる。
でも僕らもファウストのように、
最高の「痕跡」を、
美しい「刹那」を、
しっかりと刻みつけたいんだ。
「過ぎ去った」時間は「無」ではない。
その証明として、
このカタログを「最高の刹那」にしたいのさ。
だからテーマを「ファウスト」にしたんだよ。