2013年9月10日火曜日

岬の向こう

「野田君、少し昔話をしてもいいかな?」

その老人は介護用のベッドに横たわり、少し咳込みながら静かに言った。彼の療養所兼自宅は逗子の海が見える高台にあって、窓の外には軍艦のような入道雲と出港していく船が小さく見えた。


「店舗を増やして大型化を目指すか、今ある数店舗を充実させていくか」

当時、僕が悩み抜いていたその問いのアドバイスを、ある人物に求めてご自宅へお伺いした、ひどく暑かった夏の日の話だ。

老人は・・・。
彼方遠くを見つめながらひっそりと話し始めた。


「遠い昔の話だ。小さな高速艇に乗っていた時代だな。私たちはまだ若く、世界は希望と混沌に満ちていて、一寸先さえ見ようとしなかった。たった数名のお客様を海岸から岬の先に渡すだけの仕事だったが、私たちの仕事ぶりの評判は非常に高く、いつも順番待ちの状態だった。そんなある日仲間の一人が言った。

「なぁ、あの水平線の向こうには何があるのかな。楽しいことが待ってる気がするんだよ。で、提案だけど、岬の向こうまで行こうぜ、商売を広げる時が来たんだよ」

岬の向こうは海流も悪いし岩場も多い。分かってはいたが、血気盛んな私たちは何の計算もなく仕事の枠を広げた。岬の先を目指したんだな。

私たちは、すぐに自分たちの思慮の浅さを痛感した。うまく行く事もあったが、ほとんどは挫折の連続だった。お客様へのサービスもおざなりになって、自分たちの名誉を維持するためにだけ血の汗を流しているような気さえしてきた。一番こたえたのは仲間数人の離散だ。彼らは言った。「俺たちは岬の仕事に戻るよ」私を含めた残された仲間は毎晩散々語り合った。なぜ、こんなに辛いのか、そして・・・

『なぜ、こうまでして先に進まなければならないのか』

より大きな商売にして、より多くのお客様に快適を届けるため・・。しかし、そんな美辞麗句は空虚に響いた。誰もが思っていた。そんな上滑りな理由なんて本当は嘘っぱちだって。結局私たちはさっぱり分からなかったんだ。夜が明けて、それでも歯を食いしばって今日も仕事に出かけて行くその理由が。

そして、幾年かの年月が流れた。私たちの事業はまだ奇跡的に自分の脚で立っていた。会社の船は大きくなり、数も増えていた。政治的な仕事も増え、噂を聞きつけて、いろんな人たちが集まって来た。誰もが私たちを指して成功者だと言った。当然生活は安定してくる。でもその代わり、私たちの筋力は少し衰え、髪に白髪も混じってきた。私たちはいろんな人々に利用され、利用していった。岬の頃の昔話が増えて来た。「あいつらどうしてるかな?」「あんなお客さんいたよな」結局みんな思っていたんだ。どうしてあの頃の充実感がないんだろうって。辛い。そしてこれは永遠に続くんだろうなって。事業はもうここまででいいじゃないか。胸を張ろう。私たちは充分良くやったさ。

しかし、ある日。私たちは突然発見する。若い頃の自分たちに良く似た目を持っている若者たちが身内に居る事を。荒々しく舳先に立ち、ひたすら一心に、未来へ目を向ける若者たち。彼らはうつむいた私たちの見えないところで、しっかりと育っていたのだ。長い年月の間、もうずっと長い間、語らうべき話題なんてなかったのに、私たちは再び彼らの事を熱心に話し始めた。語りながらなぜか涙が止まらなかった。まだ稚拙で未熟な若者たちは、放射する情熱というただ一点において私たちを肯定し救ったのだ。私たちはもう一度水平線の向こうに目を向け始めた。なあ、まだ行けるよな?今度はあいつらのために・・。仲間の一人が顔をくしゃくしゃにしながら言った。みんながいっせいに頷いた。互いの手を握り合った。大丈夫さ。まだまだ行けるぞ。まだ見ぬ水平線の向こうへ!!

さらに長い日々が流れた。今や私たちの世界は大きく広がった。だがもう見ての通り一人で立ち上がることもできないし、仲間の数人はもういない。でもな、この一生という長い年月で経験してきた挫折の一つ一つでさえ、幸せという形に代わって今この心にある。写真なんていらない。私の胸にはっきりと残っているから。そして、今なら分かる。私たちを前に進めた正体が。『なぜ、こうまでして先に進まなければならないのか』の答えが。

「なぁ、あの水平線の向こうには何があるのかな。楽しいことが待ってる気がするんだよ。」

「・・そうだ。実に、そのたった一言の言葉が長い間私たち苦しめ、前へと進めた。そのたった一言の言葉が私たちの夢となり、長い長い旅路の羅針盤となったんだ。君の質問の答えになるかは分からんが、君たちは君たちの見たいものを見に行けばいいんだよ。そして常に決して考え過ぎない事だ。正しいかどうかなんて理屈はまったく関係ない。ただ好奇心と情熱に従えばいいんだよ」

今でも夏になると、
僕は彼の話を時々思い出しては、胸が詰まるような気持ちになる。
ホームで通り過ぎる電車を見送ったり。

蜃気楼の坂道を自転車で登ったりしている時に。


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